聖餐卓について

信濃町教会会堂建築ニュース
NO.11 2004.5.9より転載
旧会堂聖餐卓設計図(福田啓三著)
(信濃町教会 かいどうけんちくニュース NO.11 2004.5.9より転載)

1 梶田恵の家具設計図が知られるまで

 旧会堂の格調高い講壇や講壇の椅子はだれが設計したのだろうか。『信濃町教会会堂 1930-2003』に家具のことも記録しておきたいと思い、この方面の史料にも注意していたが、一つとして見いだせなかった。
 家具の設計図は作品ができればそれで終わりといわれるから、当然なことかもしれない。ところが、同書刊行後、思いがけないことから旧会堂聖餐卓の設計図が東京藝術大学大学美術館に所蔵されていることを知った。設計者は梶田恵という。大正・昭和戦前期の家具木工芸作家の代表的存在である。
 1980年に「家具の博物館」で開かれた「梶田恵回顧展」という展覧会目録に、信濃町教会の聖餐台が梶田恵のゴチック様式の作品として挙げられいるのを見出した。簡単だが、次のような記述である。
 
「(4)ゴチック 岡田信一郎の設計した信濃町教会(1930年、昭和5年)で行なっているが、建築様式も考慮してジャコピアン風挽物を加えている。予算の関係か原案に近い聖餐台も飾り彫刻も省略している」(中村圭介「梶田恵の作品と生涯」『梶田恵展目録』家具の博物館、1980)。

 これは家具全般にわたる観察で、どの家具をゴチック様式と見なしたのか、また聖餐卓以外に何を梶田恵の作品と見なしたのかは分からない。「ジャコピアン風挽物を加え」たという家具も特定されていないが、聖餐卓を指すのであろう。
 とにかく聖餐卓を実見しなければこのような記述は不可能である。一体だれが、いつ調査したのか。この目録を手がかりに調べていくうちに、梶田恵の設計図が東京芸藝術大学大学美術館(当時は資料館)に所蔵されていることが分かった。聖餐卓はもとより講壇や講壇の椅子の設計図があれば様々な疑問が解けるであろう。同館を訪ねて調べてみることにした。幸い梶田恵に詳しい、芸術資料主任の五味美里さんが応対し、広範囲にわたりお話下さった。信濃町教会に関する事柄を筆者の責任で概略すると以下のようになる。

1980年頃すず未亡人から梶田恵の家具・木工芸の設計図を母校(旧東京美術学校)に一括寄贈したいとの申し出があった。1800枚近い彪大なものである。すずは夫の設計図を長年大切に保存し、水害に遭った時は真っ先にこれを避難させたという。同資料館は一見してその資料価値を認め、一括寄贈を受け入れた。同時に設計図と作品とを照合する調査が計画された。
現存する家具は少ないが、梶田恵の許で長年働いた彼の弟が、信濃町教会の卓もその一つであることを記憶しており、信濃町教会も調査の対象になった。そして聖餐卓が梶田恵の設計図と一致することが確認された。
 さて同館には調査記録と写真アルバム、関連資料が保存されているが、聖餐卓については次の記載がある。
 「書見台(聖書見台)も製作(麻田槿三氏談)。家具の見積書は寺尾商店、小林福三、三越により出されている。家具納入は寺尾商店にて行われた」。
 聖書見台も梶田恵の設計であり、聖餐卓は当代一流の家具制作所寺尾商店に発注されたというのは新知見である。設計図と共に2枚の写真の複写をお願いし、後日送付されてきたのが後掲の図と写真である。
信濃町教会旧会堂聖餐卓と椅子 聖餐卓脚部

 この調査後、「梶田恵 ―― 家具木工芸設計図展」が東京藝術大学の陳列館で1981年に開催された。展覧会を担当した五味美里さんは、仔細に設計図を観察し、こう記している。「全て用紙は薄美濃を使い、丸ペンで墨書きし、水彩絵具と色鉛筆で綿密に書き上げられている。1つの作品について半紙大の用紙に書かれた縮尺1/10の細密な完成図と、寸法、木組み(仕口)を示した原寸大の部分図数枚がセットされる」(「梶田恵の家具・木工芸設計図展から」『潤x1981年9月号)。
 五味さんは聖餐卓を教会にふさわしくジャコビアン様式の彫刻のあるどっしりとした作品と評している。
ジャコビアン様式は挽物に特色があり、聖餐卓の脚にそれを見ることができる。ただし、聖餐台に飾り彫刻が省略されたというのは、中村圭介氏の言う通り「予算の関係」からだろうか。むしろ飾り彫刻を付けない、簡素な聖餐卓を教会が希望したのではなかろうか。史料の裏付けがないので、どちらも推定の域を出ない。
 この聖餐卓の椅子はだれが設計したのだろうか。聖餐卓の椅子と講壇の椅子とは同じデザインだから、これが分かれば家具の問題は大きく前進する。同館に講壇と椅子の設計図も収蔵されていないか、改めて調べて頂いたが、確認されなかった。五味さんは、あくまで個人的な感想とした上で、椅子の脚の飾りが梶田恵風ではないような気がすると言われる。ただ、卓と椅子はセットで作られると考えるのが自然だとすれば、問題はまだ残されている。講壇と椅子の設計者は依然として謎に包まれている。

2 梶田恵と岡田信一郎

梶田恵は1890年盛岡市に生まれ、一関中学を卒業、1908年東京美術学校図案科に入学。同科には工芸図案と建築装飾図案の二教室があり、ここで基礎を身につけた。1916年芝の寺尾商店に入社、家具の設計を担当した。1919年同店を退社、芝南佐久間町に梶田スタヂオを開く。同所は関東大震災で焼失、芝西久保桜川町に移転し、さらに1931年芝西久保巴町に移転、このとき梶田工房と改称、多くの優品が生まれた。
 ここで岡田信一郎との関係について触れておきたい。
二人の出会いは梶田が美校で岡田の講義を聴いた時に始まる。岡田は梶田の才能を高く評価し、自ら設計した日本赤十字本社、束京府美術館、明治生命保険本社、山尾邸などの家具を梶田に依頼している(『昭和55年度東京藝術大学藝術資料館年報』1981)。
 聖餐卓は昨年4月パイプオルガンと共に福島県の須賀川教会に譲渡された。梶田恵は1943年一関に疎開し、戦後間もなく同地で没した。由緒ある聖餐卓はいま東北の地にある。梶田恵との不思議な縁を覚える。末長く愛用されることを願ってやまない。
 本稿は『信濃町教会会堂』の補遺をなすものである。種々ご教示下さり、かつ参考資料をご恵与下さった五味美里さんに感謝の意を表したい。 (福田 啓三)



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