2013年の説教要旨
週報に掲載された内容を転載します。
(2012年8月5日週報から掲載開始。)



 
 12月22日(クリスマス礼拝)の説教要旨 
  聖 書   ルカによる福音書 2:1〜20。
  説 教  「キリストの誕生」

 クリスマスおめでとうございます!ご一緒に、主のご降誕を喜び、感謝し、お祝いしましょう!今日の聖書から学び取りましょう。
 1.イエスの誕生は歴史的事実です。ルカは幼児イエスの誕生の記事に、何故皇帝アウグストスや総督キリニウスといった歴史上の人物名を書いたのでしょうか。それは、イエスの誕生は歴史上の事実であることを強調したかったからです。「ベン・ハー」の著者リュー・ワーレスは、イエスなどこの世には存在しなかったことを証明しようとしましたが、却ってイエスの実在を確信し、自らの傲慢さを悔い、イエス様を信じる者に変えられ、映画にもなったあの「ベン・ハー」を書きました。
 2.昔も今も、イエス様には泊まる部屋がないこと。これは、昔も今もイエス様は人間の心に容易に入れず、閉め出されていることを象徴的に描いています。イエス様は「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入って・・・」(『ヨハネ黙示録』3:20)と、あたたの心のドアをノックしておられます。クリスマスの良き時、心の扉を開いて喜んでイエス様をお迎えいたしましょう!
 3.イエス誕生の喜びの知らせは、最初に羊飼いたちに告げられたこと。羊飼いは、何日も風呂に入れず、手も洗えず、汚い臭い人たちでした。一日中交代で羊の番をする彼らは、教育を受ける機会もなく、律法を守ることもできませんでした。そんな彼らは当時最も嫌われ蔑まれた人たちでした。昔も今もイエス様は、弱い者、差別されている者、障害をもつ者の傍らにおられます。
 4.クリスマスをどう過ごすか。ハワード・ヒューズはアメリカ史上の最大の大富豪でした。巨費を投じて映画を制作し、飛行記録も塗り替えました。でも彼の最後は哀れでした。高級ホテルのスイートから一歩も出られず、極度の潔癖症になり、やせ細って死んでゆきました。彼の人生には「自分が!自分が!」しかなく、「他者のため」という考えはありませんでした。週報に掲載した水野源三さんの「クリスマス」という詩をお読みください。手足も動かず、口もきけず・・・でも、水野さんは私などより何倍も祝されたクリスマスを過ごした方でした。皆様、どうか恵まれた祝されたクリスマスをお過ごしください!


  
 12月1日の説教要旨。
  聖 書  ローマの信徒への手紙 10:14〜15。
  説教題  「良い知らせを伝える者の足」

  今日の聖書箇所は、伝道について語ったパウロの大 切な言葉であり、拡張が高く、美しい言葉です。
 
  伝える者がいて初めて福音は伝えられます。方法は 実に多く、ラジオ・テレビ・教会のホームページ・個 人勧誘など様々です。昔は路傍伝道が良く行われまし た。人はそれらを通して教会に導かれます。でも最後 は、一人一人が聖書と向き合い、イエスこそ私の救い 主(キリスト)だ、この人の弟子にしていただこう、 と決断し、信仰者の仲間入りをするのです。

  三浦綾子さんと水野源三さんは、互いを尊敬し合い ながら一度も会わずに終わりました。二人には大きな 共通点があります。
 
  第一は、二人とも人生の絶望を味 わったこと、暗 闇に突き落とされた経験を持つことです。

  第二は、大きな苦しみを味わったからこそ、本当の 光が届いた時、二人はそれを発見し握りしめたことで す。源三さんは「わたしが苦しまなかったら、神の愛 を知らなかった」と詩に書いています。源三さんには 宮尾髢M牧師が、綾子さんには前川正さんが最初に福 音を伝えました。イエス様の福音が二人の心に溶け込 むと同時に、二人の自我は砕かれてゆきました。源三 さんは「御神のうちに生きているのに、自分ひとりで 生きていると思い続ける心を、砕いて砕いて砕きたま え」と詩に書いています。

  私たちもこの二人と同じく、誰かが足を運んで私た ちに福音を知らせてくれたから、今日があるのではな いでしょうか。イエス様の福音(良い知らせ)を伝え る者の足は何と美しいでしょうか!その良き知らせは、 人を失望から希望へ、悲しみから喜びに転換させる力 をもっています。主に祈ります。「今度は私どもを、良 き知らせを伝える者にさせてください!」と。


   11月24日の説教要約
   聖書  詩編103:1〜5
   説教  「収穫の喜びと感謝」
 
  今日は「収穫感謝日」です。1620年にイギリスを船出 したピューリタンたちが、寒さと栄養失調からその半 数を失いながら、翌年の小麦やとうもろこしの豊かな 収穫を感謝して、パンやケーキを焼き、親切にしてい ただいたインディアンを招いて3日間収穫を祝い神に感 謝したのが、この日の起こりです。もう400年以上も前 の出来事です。

  種を蒔き、育て、収穫し、皆で神様に感謝する、こ のサイクルは、福音の種蒔きも同じです。どうせ大し た結果は望めないのだからと、福音の種蒔きに躊躇し てはなりません。伝道は失敗の繰り返しの中で、でも 必ず前進するものだからです。
 
  収穫が与えられたら大いに喜ぶべきです。初めての 収穫感謝日のように、パンを焼き、ケーキを焼き、親 しい友人を招き、3日間も祝い、神に感謝する。喜びと 感謝の爆発です。このように、一人の人が主イエスを 信じれば、天では喜びがわき上がります。
 
  そして収穫を可能にしてくださった神様への感謝が 最も大切です。ミレーの「晩鐘」という名画は、何よ り神に感謝することの大切さを我々に教えてくれます。 一日汗を流して働いた農家の夫婦が、遠くから聞こえ てくるアンジェラスの鐘に一日の仕事を終わりとし、 頭を垂れて祈っています。足下には収穫したばかりの ジャガイモが置かれています。一日夫婦が協力して健 康で働けた喜びと収穫の喜び。夕闇が迫るパリ南郊の、 のどかな田園地帯に、この夫婦の無言の祈りが献げら れています。この絵を今見る私どもは、平安と喜びと 感謝で満たされてゆきます。
 
  種を蒔き、育て、収穫の喜びにあずかり、神に感謝 する。このサイクルの中に、本当の幸せを見つける秘 密が隠されています。

 
11月17日の説教要旨

  聖 書  マルコ10:17〜31。
  説 教  「金持ちの男」

 今日の記事は共観福音書のすべてに書かれています。3福音書を総合すると、この人は金持ちの青年で国会議員でした。イエス様が子供たちを抱き上げ手を置いて祝福し、いよいよ十字架で死ぬためにエルサレムに向かう時、この青年が走り寄り、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問しました。イエス様は十戒の6つを挙げ、それを守るようにと教えました。するとこの青年は躊躇なく、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。「イエスは彼をじっと見つめ、愛情をこめて言」(柳生直行訳)いました。この真面目で熱情のこもる青年に愛情を爆発させたのです。そして、全財産を売り払って貧しい人に施すこと、イエスに従って来ること、の二つを求めました。たくさんの財産をもっていたこの青年は、どちらの命令にも従えない自分を発見し、悲しみながら立ち去りました。讃美歌197(ああ主のひとみ)に、「なげくはたれぞ、しゅならずや」とあるように、青年を見送るイエス様の悲しみはどんなに大きかったことでしょう!

 でも、私は想像するのです。数日後イエスが十字架で殺されたことをこの青年は知ったのではないか。もしかすると、彼は噂を聞きつけ、ゴルゴダの丘に行ってイエス様の死を見つめていたのではないか。イエス様が3日後に復活して弟子たちに会われたことも知ったのではないか。それによってこの青年は、イエス様が言われた言葉の意味が心から理解できたのではないか。そして、イエスを彼個人の救い主として受け入れたのではないか、と。

 イエス様は「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得」(ヨハネ5:24)と言いました。私たちも、イエス様に聴いて従う(聴従)、イエス様の言葉を信じて従う(信従)、の生活を送りたいと願います。


  11月10日の説教要旨
   聖 書 ヨハネによる福音書 9:1〜12
   説教題 「神の業(わざ)」


 今週一週間は、NCCによって「障害者週間」と定められています。1981年の「国際障害者年」後、毎年、11月の第2週を障害者週間として守って来ました。このことにより、聖書をより深く理解し、教会の姿勢を吟味し、障害者との垣根をなくす努力が求められています。そんな中、今日の聖書箇所が与えられました。
 この人は生まれながらの盲人で、道に座り、物乞いをしていました。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問いました。それに対する主イエスの答えは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」という驚くべきものでした。三浦綾子さんは「私はこれを読んだ時、どんなに慰められたか分からない。まさに、暗闇に光が差し込んできた思いだった。世界中のどれ程多くの人が、この箇所に喜びと希望を見出したことだろう」(『新約聖書入門』)と書いています。私個人にとっても入信を決意した聖書箇所であります。
 イエス様が言おうとしていることは、次の3点でしょう。

(1)障害者も一人の人間として神に愛された存在である。神の業とは、神の愛の業のことだから、神は失明という重荷を与えながらも、この人に特別な使命を与え、〈生きよ〉と命じておられるのです。私の義父は24歳で中途失明しましたが、この箇所に出会って生きる希望が与えられ、信仰に入りました。「目が見えないのは不便だが、決して不幸ではない」が、父の口癖でした。

(2)イエス様は障害者に自立を求めている。自分の障害を罪の結果などと思わず、信仰をもって、心を自立させて生きることです。物乞い生活に甘えるのではなく、経済的な自立も求めています。岩橋武夫さんは、早稲田大学の学生時に失明しましたが、この聖書箇所で救われ、イギリスに留学し、大阪に「日本ライトハウス」をつくり、盲人への職業訓練を通して経済的自立を進めた人でした。

(3)障害者は決して憐憫(Pity)の思いで、可愛そうな存在として見るべきではなく、共感(Sympathy)ししうことが大切だといういことです。(日本の知的障害者の父)と呼ばれた糸賀一雄氏は、キリスト教の信仰から、「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」(『福祉の思想』)と言いました。障害者に世の光を、ではないのです。障害者を世の光に、なのです。それはイエス様が思っていたことと同じです。

 
10月27日の説教要旨
   聖 書   詩編 133:1〜3
  説教題  「共に座っている幸せ」


 
   この短い詩は、バビロン捕囚の解放宣言が出された(BC538年)後、バビロンに尚住み続けていたユダヤ人が、聖地エルサレムに巡礼に行った時のものです。「都もうでの歌」という言葉から分かります。50人〜100人がグループを形成して助けあいながら聖地巡礼を成功させるには、互いの協力は必須でした。「兄弟が共に座る」、「兄弟が和合している」ことが絶対必要でした。こうした背景をもつこの詩から、現代に生きる私どもへのメッセージを聞き取りたいと思います。

(1)「共に座る」とは、単に仲の良い者同士が一緒に座るということではありません。その真ん中にイエス様がおられること、聖霊が注がれている状態を指しています。主イエス様を中心に、共に座り、共に食べ、共に飲み、共に語り、共に祈る姿です。

(2)旧約時代、新しい王が即位する時や預言者が立てられる時には、頭に油(香油)が注がれました。メシアはヘブル語で「油そそがれた者」の意であり、ギリシャ語のキリスト(クリストス)もそうです。でもここで言う油そそぎとは、それだけの意味ではありません。油そそぎは、聖霊のそそぎのことです。

(3)讃美歌21−540番「主イエスにより」を作詞したジョン・フォーセットは、神学校を出てすぐイギリスの片田舎の小さな教会の牧師になりました。7年後、首都ロンドンの大教会から説教を依頼されて出かけて行きました。終わると、「この教会の牧師になって欲しい」との招聘を受けました。4人の子供たちの教育を考え、同時にこれが神様のみ心によるものだと考えたジョンは、ロンドンに移る決意をしました。いよいよ出発の日、送る言葉もなく涙・涙で見送る教会員を前に、妻のメアリーが「この人たちと別れるなんて私にはできない!」と泣き出しました。ジョンも「私もだ!」と言い、二人は荷物を教会に戻し始めました。その後二人は終生この小さな教会に住み、伝道を続けました。

 ジョンはこの讃美歌の1節に、「主イエスにより結ぶ愛は、心も思いも一つにする」と書き、3節に「共に嘆き共に泣いて、互いの重荷を担い合おう」と書きました。 主にある兄弟姉妹が、イエス様を中心に共に座っていたのです。


 
10月20日の説教要旨
  聖 書   ヨハネの黙示録 7:9〜17。
  説教題  「天国に市民権をもつ者」



 ヨハネの黙示録が書かれた背景には、ローマのドミティアヌス帝が皇帝礼拝を制度化し、人々に強制したことがあります。キリスト者には大問題であり、多くの殉教者が出ました。この文には、キリスト者への励まし、再臨が近いこと、そして慰めが流れています。
 
 10節に「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである」と書かれています。救いは神からのみ与えられるのだ、との信仰告白です。ソロモン王がギブオンで神に「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」言われた時、「聞き分ける心をお与えください」と答えたような、神にのみ救いを見出す者でありたいと思います。
 
 12節に「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が世々限りなくわたしたちの神にありますように」とあります。これら7つのものはすべて神の元にあり、神とキリストのみが受けるべきものだという、信仰告白です。ダビデ王が死を前に「神のほかに我らの岩はない」(詩22:32)、「わたしの救いの岩なる神をあがめよ」(22:47)と告白していますが、我々もこのような信仰をもちたいものです。
 
 17節には「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」とあります。神は直接、あるいは信仰者を用いて、我らの目の涙をぬぐい取ってくださると言うのです。何という慰めに満ちた言葉でしょうか。三浦綾子さんは、長い入院生活の中で、将来をはかなんで何度涙を流したことでしょうか。でも、前川正さん、西村久蔵さん、五十嵐健司さん、三浦光世さんらがその涙をぬぐい、信仰へと導きました。綾子さんが、『道ありき』、『愛の鬼才』、『夕あり、朝あり』などに書いた通りです。

 神は主イエス様によって、また、信仰者を用いて、今も私たちの涙をぬぐい取ってくださるお方であります。今日に生きる私たちも、このお約束に希望を見出して日々歩んで参りましょう。



10月6日の説教要旨
 聖 書   ローマの信徒への手紙13:1〜7節  
 
説教題   「上に立つ人々」

 教団の聖書日課で与えられた聖書箇所ですが、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく・・」(1節)と言われると、本当だろうかと思ってしまいます。ここでは特に国家のもつ権威について語っているようなので、余計です。私の兄は第二次世界大戦に駆り出され、17歳の若さでアリューシャンの海で死にました。国家の権威の下、「お国のため」という美名のもとに殺されたのです。戦争中の教会は、国民儀礼と言って、礼拝に先立ち天皇の住んでいる方向に向かい頭を下げました。特高に捕らえられ獄中で死んだ牧師もいました。国家の権威と聞くだけで拒否反応が走ります。でも良く考えてみれば、昔も今も、我々は国家から守られ、便宜を与えられ、快適な生活を保証されてきました。パウロがここで言っていることは次のようなことでしょう。

 @第一は、我々は国家という枠の中で、キリスト者の善を示しながら生きてゆくべきだということです。熱心党のようにローマ帝国にテロで対抗するのではなく、アーミッシュのように世間と隔絶された生き方をするのでもなく、です。

 A第二は、聖書に「自由な人として生活しなさい」(『Tペトロ』2:16)とあるように、国家の枠の中で、神を信じつつ、他の何ものにも束縛されずに自由人として生きることです。ドイツで「牧師緊急同盟」が出来、バルメン宣言が出されて、ニーメラーやボンヘッファーらがヒットラー批判を展開したように、国家批判も自由であり、時には国家に従わない自由も保障されているのです。

 B第三は、真の権威者は神お一人であるということです。バルトは「神は権威の初めであり、終わりである。その義認であり、裁きであり、然りであり、否である」(『ローマ書講解』)と書いています。私たちが信じ従うべきは神であり、唯一の権威者は神であります。

 神が人を創り「傑作だ」と言われたのに、現実の我々は罪多く神から離れやすいものです。国家もまた神につくられ、国民に仕えるように求められたのに、現実は国民を虐げることもあります。でも、背後に権威者なる神がおられることを信じたいものです。




 
  9月29日の礼拝説教要旨
   聖 書 詩編37:1〜6。
   説教題 「主に信頼せよ」

@1節に「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を  行う者をうらやむな」とあります。悪をなす者が、そ の悪にもかかわらず物質的に栄えている。でも、その ために怒ったり、うらやんだり、不平不満をいだいた りするな、というのです。どうしてか?作者は「彼ら は草のようにまたたく間に枯れる」(2節)からだと自 分に言い聞かせています。小島誠志先生は「悪を行う 者に怒りすぎると足をすくわれてしまう。それよりは 自分のなすべき善を行うことです」と書いています。 旧約のヨセフは、兄たちに売り飛ばされ、ポティファ ルの妻に投獄され、謎解きをしてやった二人の役人に 忘れられ、さんざんの人生でした。でもヨセフは「神 は見ていてくださる}(エル・ロイ)と信じていました。 周囲の悪にとらわれず、神を見上げて善を行い続けま した。その結果、遂に王の夢を解き、30歳の若さで エジプトの宰相になりました。彼は再会した兄たちに、 「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、 神です」と言います。神の摂理を述べています。「神は、 神を信じる者に対しては、もっている計画を必ず遂行 される方である」ということです。

A5節は口語訳の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信 頼せよ。主はそれをなしとげ(てくださる)」の方が、 私にはぴったりきます。自分の道(人生)は負いきれ ないほど重いものです。誰にも頼らず突き詰めれば、 強度のストレスか自殺さえ起こしかねません。その重 い人生を神様にゆだねればいいと言うのです。「委ねれ る」とか「まかせる」と訳された言葉は、「転がす」と いう意味です。自分の人生をイエス様の足下まで転が していきましょう。そして主を信頼しきるのです。信 頼すると訳された「バータハ」は、安心しきって大の 字になってゴロッと横になることです。「イエス様への 人生の丸投げ」です。

B堂面哲男さんは勉強の目的が分からず強度の鬱病にな りました。屋比久秀子さんは3歳の時、ハシカで視力 を失いました。この二人は宣教師を通してイエス様に 出会い、信仰を持ち、結婚し、5人の子どもに恵まれ ました。二人とも困難な人生をイエス様の足下に転が して、イエス様に信頼しきった人生でした。ヨセフの 考え方と同じく、悪にいら立ったり、うらやんだりし やすい私たちに大きなヒントを与えてくれる二人の人 生ではないでしょうか。


 
 9月22日の説教要旨。
 聖書:『Tコリント』16:13〜14。
 説教:「何事も愛をもって行いなさい」

  パウロはコリントの信徒への長い手紙の最後の最後 に、今日の説教題である「何事も愛をもって行いなさ い」と言葉を書きました。コリントの教会に起こって いた分派活動、信徒同士の裁判、性的堕落、偶像崇拝、 復活否定などは、すべてイエス様が十字架で示してく ださった愛を忘れているためだと考えたからでしょう。

 「何事も愛をもって行う」ことは、今の私たちにも、 言うは易く行うは難いことです。
 
  森永乳業の創始者である森永太一郎は、倒産した会 社の陶器をアメリカで売ろうと渡米しましたが、人種 差別にあい、失意の中で公園のベンチに座っていた時、 60代の夫人からキャンディーをいただきました。食べ た時あまりに美味しくて、思わず「うまい!」と叫び ました。同時に「日本の子供たちに栄養のある美味し いお菓子を食べさせてあげたい!」という希望を与え られました。オークランドの老夫婦宅に下男として就 職しましたが、この夫婦は森永さんに何の差別も蔑み も見せませんでした。それどころか友人として全く平 等に付き合ってくれました。その理由が彼らがクリス チャンであるからと知った森永さんは、教会に通い始 め、やがて洗礼を受けました。
  11年もの修行の後日本に戻った森永さんは、小さな 洋菓子屋を開きます。マシュマロやミルクキャラメル などが大ヒットし、みるみる大会社に成長しました。 関東大震災時には、重役たちの反対を押し切って倉庫 にあるすべての商品を無料で困っている人に提供しま した。「これは神様へのお返しです。お客様へのお返し です」。これが彼の言い分でした。
 
 「何事も愛をもって行うこと」は、確かに難しいこと です。でも森永さんのように、イエス様の十字架の愛 を土台に生きようとすることは、私共にも許されてい るはずであります。
 
  9月15日の説教要旨。
聖書 『エフェソの信徒への手紙』5:1〜5。
説教  「新しい戒め」

  手紙の女王」とも呼ばれるこのエフェソ書は、パウ ロの獄中書簡の一つです。いつ引き出されて殺される か分からない状況下で書かれた手紙であり、その点か らすれば、パウロの〈遺言状〉です。

 5:1 に「神に倣う者となりなさい」と書かれてい ます。具体的には、
  @「聖なる者にふさわしく」(3節)歩むこと、
  A「愛によって歩む」(2節)こと、
  B「感謝を表す」ことです。

 当時はグノーシス主義の悪い影響もあり、性的に大変 乱れていました。コリントの神殿には何百人もの「聖 なる売春婦」と呼ばれる巫女がおり、その収入によっ て神殿が維持されていたと言われています(バークレ ー)。イエスの教えはそれらを禁じるばかりでなく、「み だらなこと、汚れたこと、貪欲なことを口にするな」 という驚くべき教えでした。キリスト教がこの世にも たらした大切な教えの一つは、このように聖なること、 純潔なることを目指すことでした。

  愛によって歩むことは至難の業です。でも、このこと でもイエスに倣った多くの人がいます。アメリカから 来日したリーパー宣教師もその一人でした。沈没する 洞爺丸の中で、彼は日本人女性に救命具を譲り、死ん で行きました。彼の娘のリンダは14歳の時日本に短 期留学しましたが、事故現場である函館の七重浜に入 り、気が狂ったように「パパ、なぜ死んだの。パパ、 なぜ日本人のために死んだの。パパ、ここに帰ってき て!」と叫びました。でも後日、「ようやく分かりまし た。子どもの頃から母が父の写真と一緒に枕元に置い てくれた聖書を、ようやく開くことができました。そ こにはこう書かれていました。『人がその友のために命 を捨てるほど、大きな愛はありません』(ヨハネ15:13)。 わたしはこの御言葉によって、なぜパパが日本人のた めに死んだのかが分かりました。そして、主イエスの 愛がそうさせたということも」という手紙を送ってき ました。リンダはやがて宣教師夫人となって、父の愛 した日本に戻ってきたのでした。

 
 9月8日の説教要旨。
聖書:マタイによる福音書 18:21〜35。
説教:「隣人」


  有名なイエス様の譬ですが、私は二つのことを特に 示されました。
 
  第一は、人間は神様から一生かけても返すことの出 来ない恵み・慈しみ・タラントをいただき、且つ、罪 の一切をイエス様の十字架によって赦していただいて いるのに、そのことは殆ど忘れ、友人に貸したことや、 友人から受けた苦しみ・中傷・愛のなさは、執拗に問 題にする者であるか、ということです。旧約のヨナも そんな人間の代表でした。彼は、ニネベの12万の民を 救おうとする神の愛の求めを拒否しました。彼の心は 「神に背くあんな町は滅ぼしてしまえばいいんだ!」 という裁きの思いでした。ニネベの人など「隣人」と は思っていなかったのです。ヨナの最大の誤りは、「自 分が神様なったこと」でしょう。エーリッヒ・フロム は『愛するということ』の中で、「ヨナは慈愛よりも正 義を重要視したが、神はヨナに、愛の本質は何かのた めに働き、そして何かを育てることである、ことを解 き明かしている」と書いています。
 
  第二は、私たちは如何に裁くことに早く、赦すこと に遅く苦手であるか、ということです。ペトロがイエ ス様に質問した時、主イエスの心にあったのは「ペト ロよ、あなたは他人の罪のことを言っているが、自分 の罪の大きさは分かっているのか?そしてそのあなた の罪が、もうわたしによって、わたしの十字架によっ て赦されるのだということを知っているのか?」とい うことだったのではないでしょうか?加来周一先生は 「赦すということは至難のわざである。場合によって は赦さずに憎む方が生きるためのエネルギーになるこ ともある。しかし、憎しみは決して笑顔で生きること を許さない。現に相手を憎んでいる自分が、イエスに よって無限に許されていることを感じ、感謝に溢れて いないと、人は相手を赦すことはできない」と書いて います。

  赦され難い自分が、イエス様の十字架で既に赦され ている。そのことに改めて気づき、感謝して、人生を 歩みたいと思います。


 
 9月1日の説教要旨
聖書  使徒言行録 8:4〜8。
説教 「歩きながら伝道する」
 
  ローマの歴史はキリスト教迫害の歴史でした。森本 哲郎さんは『神の旅人』という本の中で、「人間という ものは本当に残酷な者です。特にローマの歴史を辿っ てみると、これ程人間は悪いことをするのかと思う」 と書いています。エルサレム教会が激しい迫害を受け たので、フイリポは命からがら北に逃れてサマリアに 入りました。迫害から逃れたのです、敗走です。でも フィリポは、ただ敗走したのではありませんでした。 行く先々で伝道し、多くの者を主イエスに導きました。 サマリア人は、他民族と混血して偶像崇拝者に成り下 がった者たちと、ユダヤ人が口もきかなかった差別し ていた相手です。でもエルサレム教会迫害によって、 図らずも初めてサマリアに福音が伝えられました。更 にフィリポは、エチオピアの高官にも伝道し、遂にア フリカ大陸にも福音の種が蒔かれました。すべてフィ リポたちが「歩きながら伝道した」結果です。
 アイリン・アンダーソン宣教師が、北は福島から南は 白河まで、どこまでも歩いて行って福音を伝えたのと 同じです。
 
  小島誠志先生は『疲れた者に力を」の中で、「エルサ レムで迫害を受けたキリスト者たちは、『散って行った』 のではなく、正確に言えば『散らされて行った』ので す。しかし、散らされながら、そのすべての処で福音 を伝えました。追われつつ伝道したのです。困難があ るから行けない、障害があるから進めないといいうの は言い訳に過ぎません。福音は困難を用いて前進する のです」と書いています。
 「マイナス(−)をプラス(+)に変えて下さる主は ほむべきかな!」であります。
 
  キリスト者への迫害は遠い昔のことではありません。 第二次世界大戦中、日本でも迫害があり、殉教者が出 ました。ドイツではヒットラー批判のため、ボンフェ ッファ−という若くて有能な牧師もまた殺されました。 私たちは今も目をさまして、隠れた迫害にも負けずに 歩んで行かなければなりません。

8月11日の説教要旨 
聖書 ローマの信徒への手紙 第12章9節〜21節
説教 大いなる情熱 〜霊に燃えて〜
説教者 櫻井淳司牧師


(1)前回の母の日礼拝では「神は細部に宿る」という言葉を紹介しました。今日は「神は私たちの現実をよさもわるさもあるがままに担っていて下さる」と申し上げたいと思います。
  現実の私たちは必ずしもおかれている状態に満足しているわけではありません。ことに選挙後の日本の政治状況は一党独裁も可能な強い権力で統制される気配を感じて、おかしいぞ、わたしどもが少しも望んでいない憲法改悪や集団自衛権を行使できるようにして米国が戦争をしているところに自衛隊を送って戦争に参加できるようにするなど・・・・平和を破壊する方向にこの国を導こうとしている勢力の損じを感じます。にも拘らず神は大いなる情熱をもって私どもを担っていてくださるのだと信じたいと思います。私の続けているバルト神学研究会と称する読書会十四年目を迎えて「キリスト教的生U」に入りました。その初めの章のタイトルが「大いなる情熱」であったので、今日の説教に借用しました。

(2)今日のテキスト ロマ書12章はキリスト教的生活の規範とタイトルが付けられています。キリスト者の生き方の基本となる事柄がパウロ的大いなる情熱をもって語られています。
 その中心は18節で「すべての人と平和に暮らしなさい」です。例外なくすべての人と平和に暮らす勧めです。ご承知の通りパウロはユダヤ教徒でした。そして熱心に、真剣にキリスト教徒を迫害し、(使徒行伝8章1節)殺すことに賛成していました。
 ところが復活のイエスに出会って、その光の強さに目が見えなくなり、しばらくして目からウロコが落ちるように、見えるようになりすっかり回心してイエスに従うことになったのでした。それまでの自分の間違いを償うかのように怠らずに、励み、霊に燃えて主イエスに従いました。

(3)14節には「迫害する者のために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とあり、これはイエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」に通ずるものです。
 私はここに非暴力的ライフスタタイルの出発点があると解釈しています。しかし、19節の申命記からの引用で復讐する紙について述べているのは旧約の域に留まっているパウロの限界です。「神も復讐する事を好まず祝福される方」とするのがイエスの道であると思います。

(4)ドイツの政治家、東西統一後の大統領であったヴァイツゼッカーの有名な言葉は大切です。
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目(原文のママ)となります。非人間的行動をなした過去の事跡を心に刻もうとしない者はまたそうした危険に陥りやすいのです。」
8月4日の説教要約 
聖書   詩編 113編、  、マルコによる福音書 11:1〜10。
説教   「主がお入り用なのです」。
説教者  土肥研一神学生
(日本聖書神学校3年生)
 
 2009年のあの秋の夜を、私はきっと生涯忘れないと思います。この夜、私が所属する教会の牧師先生より、「この教会の牧師にならないか」と声をかけていただきました。たいへん光栄に感じました。しかし、家に帰ってよく考えてみても、自分が牧師になるのにふさわしい人間だとはとても思えませんでした。どうお答えすればよいのか、という悩みの日々の中で迫ってきたのが、今日ご一緒にお聞きしたマルコ福音書11章の御言葉でした。

 イエス様に命じられて、弟子たちは向こうの村に行きます。そして弟子たちは伝えました。村の人々に、そして子ロバ自身に伝えるのです。「主がお入り用なのです」。もしかすると、私の教会の牧師先生や教会員の方々は、この弟子の役目を果たしてくださっているのではないか、と思いました。神様はこの方々の口を通して、この小さな私に声をかけてくださっているのではないか。「主がお入り用なのです」と。「私はあなたを必要としているのだ」と。そう思ったとき、以前から幾度も聞いていたはずのこの御言葉を、ようやく自分に語られた言葉として聴くことができるようになりました。そして「神学校に行かせていただこう」と思いました。「もしかしたら誤解かもしれないけど、その時はきっと神様がこの道を閉ざしてくださる。まずは一歩踏み出してみよう」。そう思って神学校を受験し、入学が許され、今に至っています。

 私も、そしてみなさんも、向こうの村につながれた子ロバなのではないでしょうか。自分は神様から遠く離れていると思っているかもしれません。しかしイエス様は、この私たちに愛されたいと願っています。イエス様の方から近づいて来て、「あなたが必要だ」と言ってくださいます。そしてこの小さな私たちを大きな働きのために用いてくださいます。そのことを信じ、神様のお招きに大胆に応える者でありたいですね。

 7月28日の説教要旨
 聖書  フィリピ書の信徒への手紙 4:2〜7
 説教  「全き解決
 
 フィリピ書はパウロの獄中書簡の一つです。いつ引き出されて殉教するか知れない恐れと不安の中、自らを「キリスト・イエスの僕(奴隷)」としたパウロは、何度も「喜びなさい」と勧めています。驚くべきことです。今日の聖書からいくつかのことを教えられます。

(1)争いや分裂は不幸であること。エボディアもシンティケも熱心な女性信者でした。教会で重要な働きをしていたし、パウロの協力者でもありました。でも二人の間に争いと分裂が生じていました。パウロは獄中からそのことを憂い、二人に忠告し、更に周囲のクリスチャンたちに仲介を求めました。キリストの体である教会で、議論を通り越して争いや分裂が起こることは大きな不幸です。主人であるイエス様を追い出して、自分こそ正しいと言い張っています。このような教会には誰も近づいてこないでしょう。

(2)祈ることによって平安が与えられる。祈る時には感謝を込め、求めていることを包み隠さず神に打ち明けることが大切だとパウロは教えています。しかし、祈ったことがすぐ全部解決する訳ではありません。むしろ、何も変わらないことが殆どです。でもパウロは言うのです。たとえ問題がすぐに解決しなくても、引き続き、悩みの中に置かれようとも、祈ることによって、人知を越えた不思議な平安が与えられ、更に、「問題を抱えながら生きて行こう!主が共におられ(インマニュエル)、主がいつも見ていてくださる(エル・ロイ)のだから」という気持ちに変えられると言います。

(3)キリストを信じる者には、キリスト発行のクレジットカードが与えられている。キリストを受け入れることは、キリストのクレジットカードをいただくことです。キリストが前もって全部を支払っていてくださっています。この世のクレジットカードでは目に見えるものしか買えませんが、キリストのカードなら目に見えないもの、(希望・喜び・感謝・平安など)が買えます。今日の聖書はこのことを私たちに教えてくれています。
 何という恵み、何という喜びでしょうか!

 
7月21日の説教要旨
 聖書  ヨハネによる福音書 8:21
 説教  「世の光」
 
 イエス様は「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言い、ここでは「わたしは世の光である」と言っています。もちろんこれは矛盾することではなく、光の源はイエス様であり、イエス様に繋がった時、われわれも世の光にさせていただける、ということです。更に「命の光」と言っていることから、単に物理的な光ではなく、心の有り様を言っていることが分かります。
 ヘレン・ケラーは三重苦を乗り越えた偉人として知られていますが、彼女が世の光としての87年の人生を送れたのは、何より彼女が主イエスに出会い、自分の救い主として受け入れたからこそだ、と思います。彼女をイエス様に導いた代表者は次の4人です。

@父のアーサー。生後1年7ヶ月で三重苦を負った愛する娘を、彼は決して見放しまでんでした。ボルチモアの名医に彼女を連れて行きました。病気は治りませんでしたが、盲聾の教育に見識のあるベル博士に出会うきっかけを得ました。

Aベル博士。電話の発明者です。彼は両親の相談にのり、最も先進的な教育をしているボストンのパーキンス盲学校を紹介してくれました。ベル博士の愛の計らいで、ヘレンの家庭教師として派遣されてきたのがサリバン先生でした。

Bサリバン先生。彼女は40年もの長きにわたり、ヘレンを教・支えた人でした。自身失明の経験があり、苛酷な幼少時代を過ごした人でした。片手に冷たい水をあて、もう一方の手のひらに何度もWaterと書き、遂に水(Water)を最初に単語として教えたのは大変有名です。「奇跡の人」(The miracle worker)とは、サリバン先生への尊敬の呼び名です。

Cイギリスの詩人テニスン。パーキンス盲学校で習ったイギリスの詩人テニスンの「イン・メモリアム」という長い詩の一節は、ヘレンを遂にイエス様に出会わせました。中風の男を担架に乗せ、屋根をはがしてイエス様の目の前につり降ろした4人のように、この4人によってヘレンはイエス様・神様を知りました。そしてヘレン・ケラーは「世の光」の人生を歩んだのです。


 
 7月7日の説教要旨
 聖書  創世記 32章23〜31節
 説教  「神によって砕かれる』

  ヤコブは「押しのける者」の意で、その通りの前半生でした。老齢になった父イサクをだまし、双子の兄 エサウからずる賢く長子の特権を奪いました。兄の復讐を恐れて、20年もの長い間叔父ラバンの元で過ごしました。遂に故郷に戻ることを決意してヤボクの渡しに来ました。一人残ったヤコブの様子が描かれているのが今日の聖書です。ここから4点を学びましょう。

  1.狡猾な人間は常に孤独だということです。いつ も他人の視線を気にして、ビクビクした生活です。兄 エサウが、400人の部下を従えて迎えに出てきたことを知ったヤコブは、恐怖で身震いしました。絶体絶命で す!ここに至り、ヤコブは自分の犯した罪を悔い改め、心から神と父と兄に謝罪する気持ちになり、新しい人 に生まれ変わりました。

  2.一人になって祈ることの大切さです。「密室の祈 り」の大切さです。イエス様も「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6) と教えられました。

  3.執拗な祈りの大切さです。ヤコブの祈りは淡泊な祈りではなく、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(27節)という、しつこい、食いさがる祈りでした。「祈り抜く」ことの大切さを教えられます。イ エス様も「その人は友達だからということでは起きて 何かを与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きてきて、必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ11:8)と教えられました。

  4.自分の罪を心から謝罪することです。ヤボクの渡しを越えたヤコブは、地面に七度もひれ伏して兄エサウに許しを請いました。おびただしい家畜も兄への許しを請う捧げ物でした。兄弟は許し合って抱き合い、涙を流して20年ぶりの再会を喜びました。その後 父の許しも得、祭壇を建てて神に感謝したヤコブの人生は、恐れから解放された平安で幸福な人生でした。


 6月23日の説教要旨。
 聖書 使徒27:13〜20。
 説教 『人生の暴風雨』

  パウロはローマに行って福音を語りたいと願ってい ました。更に、当時の地の果てイスパニアにまで行って福音を告げたいと願っていました。神様は、ローマ 皇帝の前で裁判を受ける囚人としてパウロをローマに 送ることで、パウロの夢を叶えました。今日はその途中、地中海での難船の出来事です。
 
  人々はフェニクスまで行って寒い冬を越したいと思い、パウロの反対を押し切って船出しました。すぐ「エウラキロン」という寒い暴風雨が吹き荒れ、船は沈没 の危険にさらされました。船荷を捨て、船具を捨てましたが、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えようとしていた」(20節)のです。不安や恐れから、一気に 絶望の淵に落とされました。そんな時、夢で神の天使 がパウロに現れ、「必ずどこかの島に打ち上げられるはずだ」と告げました。人々は2週間ぶりに食事をとりました。276名の乗客はパウロに希望を見いだしました。 パウロは神に希望を見いだしていました。人々は囚人や兵隊や船乗りの区別なく、食事を共にし、交わりま した。浅野順一先生は「本当の交わりとは、人々が神の前に無力であることを実感し、神に愛されていることを確認しあうことである」という意味のことを言いました。
 
  メソジストの流れを生んだジョン・ウエスレ―が、1735年にイギリスからアメリカに向け大西洋を航行中、大嵐に会いました。恐れ逃げ惑う中、船の中で静かに讃美歌を歌う一団がありました。モラヴィア兄弟団の人々でした。感動に打ち震えたウエスレ―は、彼らとの交わりから第二の回心を与えられました。私どもは、人生という航海の中、度々大嵐に出会います。弱い私 たちは、きっと恐怖を覚え慌てふためくことでしょう。でも信仰に立ち返り、背後に愛なる神がおられ、逃れる道も備えてくださっているという希望をもちたいと思います。

 6月16日の説教要約
 聖書 サムエル記上16:1〜7
 説教 何に目を向けるか』『

  今日の聖書の背景はこうです。人々はサムエルに、外国と同じように自分たちにも王を立ててくれと求め ました。それはサムエルを捨て神を捨てることでした。王として立てられたサムエルは、最初こそ神に従いましたが、力を増すにつれ、主から離れていきました。遂に神はサウルに代わる王を立てる決意をし、新たな王を立てるべく、サムエルをエッサイのもとに遣わし ました。

  サムエルは長男のエリアブこそその人だと思ったの ですが、主はサムエルに「容姿や背の高さに目を向け るな。わたしは・・・人間が見るようには見ない。人 は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節) と言われました。人間には本音と建前があります。外 見の美しさや経歴で人を見るのは我々の本音です。し かし主はきっぱりと、「人間がそうであっても、わたし はそうではない!人は顔かたちを見るが、わたしは心 を見る」と言われました。

  韓国の女性、イ・チソンは教師を目指す大学4年生でした。図書館で遅くまで勉強し、迎えに来てくれた兄の車で帰宅途中、泥酔した男の運転する車に激突され、全身に大やけどを負いました。病院に駆けつけた牧師もしばらくは声をかけることが出来ない程でした。 映画俳優のように美しかったチソンの顔は、火傷を負ってしまいました。10数回の移植手術をしましたが、傷は残りました。そんな試練の中、神への信仰を失わなかったチソンは、「弱さの中に、傷だらけの肉体の中 に、短くなった指の中にも、天の神さまは命をくださ り、希望をくださり、毎日神さまに手を上げ、讃美したいという心をくださいました」と書いています。何ということでしょか!

  もし人間が外見でのみで判断されるなら、顔に大火 傷の跡が残るチソンはどうなるのでしょうか?幸いなるかな、愛なる神は、人の顔かたちに縛られず人の心の奥に目を向け、神を信頼し、神を愛する内なる心に目を注いでくださる方であります


 6月9日の説教要旨
  聖書 フィリピの信徒への手紙 2:12〜18
  説教 『世の光としての使命』

 今日は「花の日」です。これはアメリカで今から約150年前、教会に集う子供たちに、どうしたら神への感謝、隣人への感謝を表せるかを考えた牧師によって始められました。今日では世界中の教会、ミッションスクールに広まっています。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。・・・栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章)というイエス様の言葉を、この機会にもう一度味わいたいと思います。

 フィリピ書はパウロの獄中書簡の一つです。皆様もきっと同じでしょうが、明日をも知れぬ命の中、どうして16回も「喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」と言えたのでしょうか?また、「(わたしは)キリスト・イエスの僕である(直訳では奴隷である)」(1:1)という自己紹介にも驚かされます。私など、とてもそんな自己紹介は出来ません。今日の聖書箇所から3点申し上げます。

1.13節は、柳生直行訳の「神御自身が、その慈しみのゆえに、あなたたちの心に救いを求める気持ちを起させ、またそれを達成するのに必要な力を与えて下さるのである」が、分かりやすいと思います。神御自身がまず、そしていつも、わたしたちの心に救いを求める気持ちを起こさせて下さるというのです。感謝なことです!

2.心の中に神様の働きかけを受け入れると、自然に不平を言ったり理屈をこねることがなくなります。旧約聖書のヨセフがそうでした。弟モーセを妬み、不平や理屈をこね、神様から重い罰を受けた兄アロンや姉ミリアムのようにならぬよう注意しましょう。

3.上の二つが出来ると、私たちの心と顔は、光源であるイエス様に繋がったために、自然に光り輝く者に変えられると聖書は言います。「この世にあって星のように輝く」!何という有難い約束でしょうか!神様・イエス様の働きかけに心を開き、不平や理屈から自由にされ、星のように、闇夜に輝く者にさせていただきましょう!


 6月2日の説教要旨
 聖書  使徒言行録 18:1〜11
 説教  『恐れるな、語り続けよ』

 パウロのアテネでの伝道は失敗でした。彼はひどく落ち込んでコリントに来ました。アテネが知的な町であるのに対し、コリントは倫理的に堕落した「最悪の町」でした。でも神様は不思議な方法でパウロを立ち直らせ、福音伝道を再スタートさせました。

 第一は、同業者アキラとプリスキラ夫婦との出会いです。パウロは二人の工房で共にテント作りや皮なめしに励みながら福音を語り、夜は彼らの家に泊めてもらいました。買い物に来たお客にも、「イエスこそキリストである」と語ったことでしょう。この〈家の教会〉でパウロは癒やされ、福音を語り、元気を回復していきました。安息日には会堂に出かけ、大胆に福音を語りました。

 第二は、シラスとテモテが訪ねて来てくれたことです。彼らは、フィリピの教会の皆がパウロのために祈っていることを伝え、皆で献げた献金を持って来てくれたのです。800キロも歩いてです。これは傷心のパウロをどんなに勇気づけたことでしょう。私も夜間の神学校で4年間学ぶ間、多くの主にある兄弟姉妹の祈りと奨学金に支えられ、励まされた者です。パウロの喜び弾む心が推察出来ます。

 第三は、神ご自身からの励ましです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いる」との言葉です。これは、他の二つの何倍もの励ましになったことでしょう。伝道しても成果が出ない、反応がない、何の変化も起きない、そんな時、伝道者は不安と恐れと失意のどん底に突き落とされます。でもそんな時主は、今も、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いる」と励まして下さいます。

 パウロは、これらに突き動かされて福音を語りました。するとどうでしょう!プリスキラとアキラ夫婦、会堂司クリスポの一家、コリントの多くの人々が、イエスこそキリストと信じる者に変えられたのです。ハレルヤ!何という奇跡、何という主の約束実行でしょうか!
     


 5月19日(ペンテコステ)の説教要旨
 説教 『神の霊の降臨』
 聖書 ヨエル書 3:1〜5 

 本日はペンテコステ合同礼拝を献げています。イエス様は生前「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は神の霊である。わたしはあなたがたをみなしごにはしない」(ヨハネ14章)と弟子たちに約束されました。また「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました(使徒1:8)。実際その通りになりました。これが一般的に言うペンテコステの出来事です。2,000年後の今日、私たちはイエス様に直接会うことは叶いませんが、ルーアッハ(風・息)なる聖霊が、私たちを取り囲んでいて下さっていることに注目したいと思います。三つのことを申し上げます。

(1)聖霊は目には見えませんが、空気のように私たちの傍にいつもあり、私たちを取り囲んでくれています。

(2)空気が無くなれば全ての生き物が死んでしまうように、人間の魂にはこの神の息、神から吹いてくる聖霊の風が不可欠です。

(3)田原米子さんは中2で母を亡くしました。高2の時鉄道自殺を試み、両足・左手・右手の小指と薬指を失いました。心配した国語の先生から依頼を受けて、マクリロイ宣教師と田原昭肥(あきとし)青年が何度も病室を見舞いました。マクリロイ宣教師は米子さんの大好物のクッキー、それも自家製のクッキーを米子さんに贈りました。やがて米子さんと昭肥さんの間に愛が芽生え、二人は遂に結婚しました。結婚相手の女性として、両足、左手、右手の殆どを失った人を我々は望むでしょうか?この世的にはマイナスばかりです。でも、そんなこの世的な計算を打ち破ったのは二人の愛であり、背後から二人を押し出した聖霊の息吹であったと思います。二人は素晴らしいクリスチャンホームを作り、多くの人々に主の愛の素晴らしさを語りました。

 今、目には見えないけれども、私たちを取り囲んでいる愛なる聖霊に気づき、感謝して、希望をもって生きて参りましょう!

 
 2013年5月5日の説教要旨
  聖書 マタイによる福音書 6:1〜4
  説教 『右手のすることを左手に知らせるな』

 今日の聖書から三つのことを示されました。

  第一は、イエス様は善行の動機を問題にしていると いうことです。当時のユダヤ社会の有力者たちが、善行を人々に見せびらかすため、人々の注意と賞賛を集めるために行ったことを批判しています。『マルコ』12章では、賽銭箱に大きな音を響かせてたくさんの献金をしていたお金持ちたちよりも、レプトン銅貨2枚(彼女の生活費全部)をひっそりと献げた貧しいやもめの方が、より多くの献金をしたとイエス様は言われました。アンダーソン宣教師も、二本松へ向かう電車の中で出会った、3日も何も食べていない二十歳くらいの女性に、財布ごとあげてしまったと書かれています(庄司有希著『くるみの教会』81ページ)。これら二人の女性に共通するのは純粋な動機です。それをイエス様 は問題にされたのです。

  第二は、善行には報いが伴うということです。イエ ス様は『マタイ』10:42で「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報い を受け」と言われ、『マタイ』5:11〜12では「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と約束しています。善行に対して 報いはあるのです。

  第三は、では、その報いはどんなものかということです。それはこの世的にはマイナスの、仲間はずれ、 いじめ、苦難、迫害、殉教などです。この世的な報酬とはほど遠い、避けたいものばかりです。クリスチャンだからという理由で、変わり者、付き合いずらい人間、偉ぶっている人間、偽善者、などと見られがちです。日本でも第二次世界大戦中、キリスト者への迫害があり、何人もの牧師が拷問で死んでゆきました。イエスの直弟子12人中10人も殉教しました。

  イエス様が生活していたユダヤでは、施し・祈り・ 断食は善行の代表でした。でも、イエス様の愛に賛同するが故にそれらを自然に、ひっそりと行ったのではなく、見てもらい、ほめてもらいたくて公衆の面前でした人は不幸でした。


 
2013年4月21日の説教要旨
 聖書 ヨハネによる福音書 11:11〜27
 説教 『イエスは復活と命』

 ラザロの復活物語はヨハネ伝にしか記載されておらず、イエス様が殺される直接の原因になったと記して います。死後4日とは、生き返ることは全く不可能という意味が込められています。イエスは意図的に4日を経過させ、人々の頑なさと信仰の無さを憤りつつ、「あなたがたが信じるようになるため」(15節)という思いから、ラザロを復活させました。

  ラザロ復活の物語は今日でも多くの人々に生きる勇気と希望を与え続けています。

  ブラウン牧師は米軍チャプレンで、日本での兵役を終えてアメリカに戻る1,500人の兵隊と船に乗りまし た。「バイブルクラスを開いて下さい」との要望を受け、始めました。ラザロの箇所を学んだ日です。学びの後一人の米兵が証しました。「私は兵役が嫌で、見えないところで弱い相手に嫌がらせを繰り返しました。ひどい人間です。このラザロの復活は私のことを言っているようです。ここを読んで僕はもう一度新しく生きる決心がつきました。イエス様が話している復活は、今ここで起こっています。何故なら、イエス様はラザロだけでなく、この私をも死から命に甦らせて下さったからです」と。

 『罪と罰』で、ラスコリーニコフはソーニャにラザロの箇所を読んでもらっています。その聖書は彼が殺したリザベーダのものでした。この後ラスコリーニコフは、二人を殺したと自首します。8年の刑を受けてシベリアに向かう彼をソーニャは追います。小説の終わりに、彼は監獄の中で聖書を取り上げる場面が描かれています。残り7年となった刑期も、主イエスを仲立ちにして深い愛で結ばれた二人には、たった7日にしか思えない、というソーニャの言葉が心を打ちます。
 
  ラザロの復活は、このように今も私たちに、罪から愛に、失望から希望に復活して生きることを求め続け ているのです。 


2013年4月14日の説教要旨
 聖書・・・詩編3:1〜9。
 説教・・・「主よ、あなたはわたしの盾です」


 この詩は伝統的に、ダビデが息子アブサロムに命を狙われた中で書かれたものと考えられています。『サムエル記下』13章以下を見ますと、ダビデの長男アムノンが三男アブサロムの妹タマルを辱めたこと、2年後アブサロムがその復讐をしたこと、怒った父ダビデにアブサロムは5年も面会が許されなかったこと、40歳になったアブサロムは挙兵して父ダビデを滅ぼそうとしたこと、が書かれています。急を突かれたダビデは、少数の部下と共にエルサレムを落ち延び、裸足で、涙ながらにオリーブの山道を上り、逃げのびたと書かれています。しかし、このような哀しみと絶望の中でも、ダビデは神への信頼を失いませんでした。3つのことをお話します。

 1.旧約聖書がはへブル語で書かれています。ヘブル語動詞の時制には、完了形と未完了形の二つしかありません。大変興味深いことに、6節の三つの動詞は、@身を横たえて眠った(完了形)、Aわたしは目覚めた(完了形)、B主は今もこれからも支え続けてくださる(未完了形)と書かれています。ここにダビデの神への信頼の大きさがうかがえます。

 2.5節に「主に向かって叫ぶ声に、主は答えてくださる」とあります。ダビデは、神はいつも自分を見ていてくださる方(エル・ロイ)であり、いつも自分と共にいてくださる方(インマヌエル)であり、他の誰も聞いてくれなくても、神様だけは自分の話を聞いていてくださる方である、との確信を書いています。

 3.堂面秀子さんは、沖縄に生まれ育ちました。小さい時にハシカが原因で失明しました。大阪の盲学校に進んだ彼女は、『ヨハネ』9:3の言葉に出会い、イエス様を信じる者に変えられました。希望を持つようになった彼女は、神様から与えられた音楽の才能を生かしてゴスペルシンガーになりました。IBMの社員である晴眼者の哲夫さんと結婚し、3人のお子さんにも恵まれました。手記の中で「神様を信じることは何にも代え難いものです。この安心、この喜びは、どんな高価な物を頂くより素晴らしいことです」と書いています。「救いは主のもとにあります」(9節)とダビデは告白しましたが、同面さんの人生もそのことを物語っています。


2013年4月7日の説教要旨
 聖書・・・『マタイ』28:16〜20
 説教・・・弟子たちを派遣する
 
 
  今日は礼拝の中で、栄光と愛星の先生方の任職式を行います。100名近い先生方が来ていらっしゃいます。
 
  今日の聖書箇所は、ガリラヤで復活のイエス様が弟子たちに会い、最後の言葉を残して天に引き上げられ る場面です。裏切り者である弟子たちからは、とてもイエス様に声をかけたり近寄っていけませんでした。 緊張し、びくびくしていた弟子たちに、イエス様の方から近寄って行かれ声をかけられた、愛と赦しに満ち た場面です。イエス様の最後のお言葉は、「出て行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」でした。伝道 しなさい、ということです。この「大宣教命令」は、2,000年前の弟子たちだけに語られたのではなく、今も私たちに投げかけられている主イエスの言葉です。
 
  今日の聖書は、栄光学園の4つの幼稚園のすべてを創った、アイリン・アンダーソン宣教師のことを思い起こさせます。アイリンは14歳の時、教会の牧師から「アジアやアフリカには、イエス様のことを知らない人が大勢います。わたしたちの教会から、もっとそうした国に宣教師を送りたいと思います。皆さんの中からそんな人が起こされるよう、私は祈っています」と いう話を聞きました。アイリンは即座に手を挙げて、「私が行きます!」と答えました。アイリンは、その決心 をずっと忘れず、女中をし、神学校で学び、小学校の 教師をして借金を返し、ついに28歳の時に日本に来ました。その後の40年の殆どを福島県で過ごし、県の隅々にまで福音の種を蒔きました。アメリカから送られてくる物は、バザーに出してお金に換え、牧師になる人のため、幼稚園の先生になる人のため、教会のため、に用いました。いよいよ日本を去る時にスーツケースもない程、アイリンはすべてを神様のために献げ切った人でした。主イエスの遺言である、この大宣教命令に忠実に従い通した104年の人生でした。
 
  わたしたちもアイリンのように、神様から与えられ た場、示された方法で、イエス様の愛を伝える者にさ せていただきましょう!


 2013年3月31日の説教要旨
 聖書 『マタイ』28:1〜10。
 説教 「主イエス復活する」


 イースターおめでとうございます!今日の聖書から三つのことをお話しします。

 第一は、復活は事実である、ということです。三浦綾子さんは『新約聖書入門』の中で、「キリスト教の中心は主イエスの十字架の死と、三日目に甦ったという復活の事実である。ところが、この世で何が信じられないといって、イエスの復活ほど信じられない事件はない」と書いています。更に、「洗礼を受けた時でさえ、尚、復活は十分には信じられなかった」と正直に告白しています。確かに復活は科学的には立証できません。でも状況証拠があります。@あれほど弱虫だった弟子たちが、突然、勇敢に命も惜しまず伝道する者に変わったこと、Aキリスト者を迫害していたパウロの激変、Bカタコンベという地下道で200年以上も礼拝を守り通し、遂にはキリスト教がローマの国教にまでなったこと(392年)などです。主イエスの復活を立証するに十分すぎる状況証拠です。

 第二は、9節の「『おはよう』と言われた」という所です。復活のイエスは「シャローム!」と言われたのです。これは単なる「おはよう」という挨拶ではないと思います。それよりも「喜びなさい!」と訳したほうが良いと思います。「主が復活したのだから喜びなさい」と言っているのだと思います。復活の証人であるペテロは、「あなたがたはキリストを見たことがなにのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(『Tペトロ』1:8)と書いていますが、わたしたちも、復活をこの目で見ていなくても信じ、すばらしい喜びに満ちあふれさせていただきましょう。

 第三は、7節の「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という言葉です。ガリラヤは弟子たちの故郷であり、イエス様との大半を過ごした場所です。弟子たちはきっと、絶望感・敗北感・悔恨の重い足取りでガリラヤに向かったことでしょう。でもイエスは先回りしてそこにおられ、「シャローム!」と笑顔で挨拶してくださったのです。弟子たちの弱さやエゴイズムを責め立てるのではなく、ここでも「シャローム」(喜びなさい!)と声をかけてくださったのです。イエス様は今生きる私たちにも同じように先回りし、「シャローム!」と笑顔で声をかけて下さる愛のお方であります。


 
 2013年3月24日の説教要旨
  聖 書:『マタイ』27:32〜56。
  説教題:「主イエス十字架につけられる」


   今日から受難週に入りました。主の苦しみと十字架の愛を覚えて過ごしましょう。今日の聖書から4つのことを申し上げます。

(1)シモンは、はるばる1,600qも離れた北アフリカのキレネから聖地巡礼に来ました。運悪くイエスの傍になり、イエスの十字架を担ぐ羽目になりました。何と不運な、何と屈辱的なことか、と悔しがったことでしょう。でも、関連の聖書を併せ読むと、イエスの十字架での死を目撃したシモンは、この方こそ神の子と信じ、やが  て妻も二人の子たちもイエス様を信じる者に変えられました。屈辱が栄光に、不幸が喜びに変えられたのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(『使徒』16:31)。

(2)42節に、「今すぐ十字架から降りてくるがいい。そうすれば信じてやろう」とあります。昔も今も、人々は奇跡や驚くべきことをするなら、その方を神と信じます。人々は驚くべき力こそ神の必須条件と考えます。でも私たちキリスト者は、十字架から降りてこない無力の中に神を発見します。イエスが十字架から降りてきたら群衆は彼を神の子と信じたのです。でも我々は、イエスが十字架から降りて来なかったからこそ、キリストと信じるのです。信仰の逆説、信仰jのパラドックスです。

(3)46節に、イエス様は「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをしています。しかし、イエス様はその後大声で叫ばれました。『ヨハネ』19:30は、それは「成し遂げられた」という叫びだったと教えています。「テテレスタイ」というギリシャ語は栄冠を勝ち得た叫びであり、仕事を完成した勝利の叫び  です。イエス様の最後の言葉に勇気と喜びを与えられます。

(4)イエスの最後を見届けたのは女性たちでした。ある人は、当時女性の社会的地位が低かったので、誰からも注意も払われず、結果としてイエスの後について行くことが出来たと説明します。そうでしょうか?私にはそうは思えません。「完全な愛は恐れを取り除く」(『Tヨハネ』4:18)とあるように、彼女たちの一途な愛がそうさせたのだと思います。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(『Uコリ』5:14)とあるように、キリストへの強く深い愛が、恐れを取り除き、イエスへと駆り立てたのだと信じます。


 
2013年3月17日の説教要約
 聖 書・・・マタイ 20:20〜28。
 説教題・・・仕える者になりなさい


 イエス様はエルサレムに入る直前、自分の死と復活について三度目の予告をしました。どんなに辛く悲しいことだったことでしょう。それなのに弟子たちは、権力や地位を求めて争っていました。私がイエス様の立場だったら、きっと大声で怒り出したでしょう。「私が死を目前にしてこんなに悲しいのに、お前たちは私の心も分からず権力争いをしているのか!」と。今日の聖書から二つ申し上げます。

 第一は、イエス様はこんな身勝手な弟子たちにも絶望していないということです。今は分からなくても、最後には必ず自分と運命を共にしてくれると確信していました。『使徒』12:2は、ヤコブが弟子の中の最初の殉教者であったと告げています。ヨハネはイエスの遺言通り、マリアを自分の母として迎え、迫害の中、長寿を全うしたと言われています。イエス様は今も、分からず屋で身勝手な私たちを絶望せず、優しさと同情心と愛の眼差しを注いで下さっている方であります。

 第二は、「価値観の大逆転」です。当時のユダヤ人は、敵国ローマをやっつけてくれるような強いメシア(救世主)を待望していました。でもその祈りに神が送り込んで下さったのは、十字架で殺されるような敗北者のようなイエスでした。「ローマを倒し、ユダヤ人解放を!」と叫ぶのではなく、「仕える者になりなさい」・「僕(しもべ)になりなさい」と教えました。この世の価値観を根本から覆す考えでした。

 ダミヤン神父が兄に代わって修道会からハワイに派遣された当時、ハンセン病患者は船でモロカイ島に運ばれ、そこで死を待つ運命でした。ダミヤン神父は一人モロカイ島に渡り、あばら屋に入ってミサを行い、患者の背中をさすり、患者を抱きしめました。やがてダミヤン神父自身がハンセン病にかかってしまいました。発病から約10年後、彼は49歳の若さで亡くなりました(1889年)。「仕える者になりなさい」・「僕(しもべ)になりなさい」という主イエスの言葉に忠実に生きた短くも尊い人生でした。


 
  2013年 3月 3日の説教の要約
  聖 書・・・『イザヤ書』35:1〜10。
  説教題・・・栄光の回復


 今日の聖書箇所は受難節に読むことを勧められています。35章は、1〜39章の〈神の裁き〉が書かれている「第一イザヤ」の結論部分です。愛なる神は、単に裁くだけでなく、叫び求める者にその栄光を回復して下さる方でもあります。35章はバビロン捕囚から70年ぶりに解放され、エルサレムに凱旋する民のことが描かれています。ここから二つのことを学びたいと思います。

 第一は、神は愛する人々を決して見捨てることなく、その栄光を回復して下さる方だということです。70年もバビロンに捕らえ移され、何の良き知らせも無い中、人々は屈辱感にさいなまれ、失望感で満たされ、遂には虚無主義に陥っていました。『詩編』137編には、無理矢理故郷の歌を敵の前で歌わされる深い哀しみが描かれています。そこに、エレミヤの預言の通り、神がペルシャの王キュロスを用いての解放が実現しました。それは砂漠に花が咲き乱れ、荒地に川が流れ出すような奇跡でした。失意の中で人々の目は見えず、耳は聞こえず、足は立たず、口は聞けない(5・6節)状態でしたが、人々はキュロス王が建設させた大路(ハイウエー)を通って、夢にまで見た故郷エルサレムに凱旋していったのです。そして最初に神殿再興にとりかかりました。

 第二は、この心の有り様は、主イエスが十字架に突き進んでいった時の弟子たちの心境と重なるということです。弟子たちには先生であるイエスが十字架で処刑されるなど、あってはならないことでした。ですから彼らの心は屈辱感・失望感・虚無感で満ちていたのです。イエスの周りでは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」(『ヨハネ』11:5)という奇跡が起こっていたにもかかわらずです。その弟子たちもやがて復活のイエス様に会い、聖霊を受けた時、見違えるようになって、全世界に福音を伝える者たちに変えられたのです。

 捕囚の民が大路を通ってエルサレムに凱旋したように、「私は道であり、真理であり、命である」(『ヨハネ』14:6)と仰る、道であるイエス様を踏みしめて、私たちも喜び勇んで歩いて参りましょう!


 
 2013年2月24日の説教の要旨
 聖書:『マタイ』19:16〜30。
 説教:「富める青年」



 今日の聖書箇所は、「富める青年」として、とても有名です。簡潔に二つのことを聞き取りたいと思います。
 第一は、この青年の不幸とその原因についてです。この青年は、せっかく直接イエス様に出会ったのに、イエス様の弟子になり損ねた人物、弟子になる入門試験に落第した人物という点で、不幸な人間です。何故でしょうか?彼は、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか」(16節)と尋ねています。ここで既に二つの考え違いがあります。
 一つは、永遠の命は人間の側の努力で手に入れるものではなく、一方的に神様から与えられるものです。
 二つ目の考え違いは、善行を積み重ねることが永遠の命に至る道と考えていることです。このような考え方は、私たちも持ちやすいものです。主イエスは、「律法を守りなさい」と答えました。するとこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と、自信満々に答えました。この傲慢さも彼の不幸の根底にあるものでしょう。

 第二は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)というイエス様の言葉についてです。これは驚くべき言葉です。弟子たちも当惑し、「それでは、だれが救われるのだろうか」とつぶやいています。今日に生きる私たちも困り果ててしまう言葉です。イエス様はすかさず、「それは人間にできることではない」(26節)と言いました。
 宗教改革者カルヴァンの「この言葉を聞いて、農民が資産である畑を放り出したらどうなるのか。それは資産を神のために使っているのでもなく、他者のために使っているのでもない。全財産を投げ出して誇らしげに修道院に入ったりすることがこの主の御言葉に従うことなのか?断じてそうではない」という言葉に、答えがあるような気がします。

 永遠の命や天国は獲得するものではなく、神から一方的な恵みとして与えられるものです。私たちはただ謙虚に、素直に、感謝してそれを受ければ良いのでしょう。共観福音書の全てが、この金持ちの青年の物語の前に、子供を祝福するイエス様を描いていることは、私たちに答えを得る良いヒントを与えてくれているように思います。


 2013年2月17日の礼拝説教要旨
 聖書:マタイ21:28〜32。
 説教:二人の息子のたとえ



 父の求めに対してのこの兄と弟の対応は、訳によって逆になっています。最終的に父の命令に従ったのは、新共同訳では兄ですが、口語訳では弟です。訳の基になった写本の違いによるものでしょう。内容的には、『ルカ』15章の「放蕩息子のたとえ」を思い出します。
 二つの物語とも、最終的に父なる神に従ったのはどちらか?真に悔い改めたのはどちらか?を問題にしています。イエス様は「はきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)と、きっぱり言い放っています。

 律法学者やファリサイ派の人々は、聖書にはいつも悪役で登場し、イエス様の批判を浴びています。彼らの何が問題なのでしょうか?常識的には、教養もあり、お金持ちで、大切な律法を守り、貧しい人への施しもし、週に2回も断食していました(『ルカ』18章)。一見非の打ち所の無い人々、尊敬に値する人々、です。でも人間、自分たちこそ正しい、自分たちこそ神に最も近い、などと思うと、そのうぬぼれや傲慢が、他者を批判し、差別し、蔑視することにつながってゆきます。
 彼らこそ、実は多くの預言者を知り、その生涯も言葉も知っていたのに、無視し、裁き、処罰した者たちの末裔でした。バプテスマのヨハネの悔い改めの勧めを聞きながら、その必要は自分にはないと考えていた人たちでした。新共同訳の弟が自分たちを指しているなど、気づきもしなかったのです。

 それに対して徴税人や娼婦は、嫌われ蔑まれていた職業です。社会の底辺にあって、人としての尊厳も認められない者たちでした。しかし、娼婦マグダラのマリアは、直弟子たちでさえ見捨てたイエスの後を追い、復活のイエスに最初に出会い、最初に声をかけていただく光栄と誉れをいただきました。徴税人ザアカイは、イエス様の方から声をかけていただき、イエス様を自宅にお泊めし、心を入れ替え、自分の全財産の半分を貧しい人々に施し、不正に取り立てた税は、決まりの20%増しではなく、何と4倍にして償ったのです。伝説ではザアカイはこの後牧師になったと言われています。

 イエス様に出会い、悔い改めることで、文字通りザアカイ(正しい人、の意)になったのです。



2013年2月10日の説教の要旨
  聖書:マタイ4:23〜25
  説教:おびただしい病人をいやす


 主イエスは諸会堂で@教え、A福音を宣べ伝え、Bありとあらゆる病気を癒やされました。イエス様がなさったことはこの三つでした。今日のキリスト教界もまた、ミッションスクールを建てて教育に励み、教会で福音を宣べ伝え、病院・老人ホーム・養護施設を建てて病人を癒やし、イエス様と同じ愛の業に励んでいます。この中で人々に最も魅力的だったのは、イエス様が病人を癒やしておられるということだったでしょう。だから人々は100キロ以上の道のりを野宿しながら、歩いてイエス様に会いに来たのだと思います。

 岩村昇さんは、18歳の時に広島で被爆したことから医師になりました。やがてネパールに渡り、18年間、医療に従事しました。当時ネパールの平均寿命は僅か37歳でした。カトマンズにいる岩村医師に会うために、人々は、イエス様の時と同じように、遠い道のりを野宿しながら歩いて訪ねてきたと言います。岩村先生はクリスチャンとして、主イエスに倣った歩みをされました。

 主イエスはあらゆる病気を癒やしました。しかし今日、祈っても病気は治らないことがほとんどです。日本点字図書館を創立した本闊齦vさんは、5歳の時脳膜炎が原因で失明しました。親はありとあらゆる手立てを尽くして視力回復を試みましたが駄目でした。小さい時から本が好きだった本閧ウんは、やがて関西学院文学部に進み、そこで盲人クリスチャンの岩橋武夫と出会います。岩橋さんは早稲田の学生時代に失明し、後にイギリスに留学し、大阪に日本ライトハウスを建てた哲学者でした。本闊齦vさんは岩橋先生との出会いを通して主イエスに出会い、盲人が自由に好きな本が読めるようにと、25歳の若さで、700冊の点字本で「日本盲人図書館」を始めました。今は東京高田馬場にあって日本一の「日本点字図書館」となりました。今では、パソコンの活用により、盲人がいつでも、どこでも、好きな時に、好きな本が読めるようになりました。

 神は愛の方です。本閧ウんに失明を通して、大きな愛の事業をさせたのです。本閧ウんには失明による不自由はあったでしょうが、それ以上に、神さまから選ばれ用いられたという、恵みと満足感に満たされた人生だったのではないでしょうか。

 私たちは2000年前のイエス様に倣い、これからも「教育」・「伝道」・「癒やし」(医療・介護)に熱心に取り組んで参りましょう。


2013年2月3日の説教の要旨。 
 聖書:マタイ4:18〜22。
 説教:「四人の漁師を弟子にする」



 今日の聖書箇所から二つのことをご一緒に学びたいと思います。
 第一は、突然イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、どうしてすぐに家族も仕事も捨ててついてゆけたのか、です。私たちお互いにそんなことが出来るだろうか?ということです。きっと「ちょっと待って下さい!」と躊躇し、何か断りの理由を探しそうです。アンデレがバプテスマのヨハネの弟子であったという記事(ヨハネ1:35)から、この4人は既にイエス様に会い、イエス様の話を聞いたことがあったのでは?、とも考えられます。でも、そんなこととは関係なしに、主イエスの呼びかけは大胆です。そして4人はすぐについていったのです。私たちの教会に多大な影響を及ぼしたアイリン・アンダーソン宣教師は、苦学の上入学した神学校で、「わたしについて来なさい。一緒に日本に行きましょう!」というイエス様の声を聞きました。28歳で来日し、67歳で帰国するまでの約40年間、福島で多くの人を信仰に導き、多くの幼稚園・保育園を建てました。104歳で天に召されるまでの人生は、神を愛し、日本を愛し、主イエスの呼びかけに答え続けた人生でした。
 第二は、今から約2,000年前に4人の漁師に呼びかけた主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉は、今、私たち一人一人にかけられているということです。これは、2,000年前の遙か昔に、日本から遠く離れたユダヤの地で発せられた言葉では終わりません。今も、私たちに向かってイエスは同じ招きをしておられるのです。あなたは、イエス様の招きにどう答えますか?生活も家族も捨ててという言葉に後ずさりしそうですが、少なくとも、イエス様を自分の救い主と信じ、週一度は教会に来て主イエスの背中を確認して、一週の生活を始めることは出来るのではないでしょうか?それも十分に、主イエスの「ついて来なさい」の言葉に従って生きることだと、私は思うのです。


2013年1月27日の説教要旨。
 聖書:『マタイ』4:12〜17。

 説教:「主イエス伝道を始める」。


 バプテスマのヨハネは神に命を献げた〈ナジル人〉らしく、義と愛の大切さを命がけで説いた人でした。彼は、ヘロデ・アンティパスが異母兄弟フィリポの妻を奪ったことを鋭く批判しました。その結果捕らえられました。それを知ったイエス様は、一旦故郷ナザレに退き、ついに故郷に別れを告げ、カファルナウムで伝道を開始しました。主イエスはヨハネと同じく、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に説きました。ここから三つのことを学びたいと思います。

 第一は、「悔い改めよ」と説いたことです。原語は〈メタノイア〉という言葉です。直訳すれば、向きを変えなさい、という意味です。「神と反対の方向に歩むのを止め、向きを変えて、神の方に向かって歩め」ということです。「地を見ていた目を転じて、天を仰げ」とという意味でもあります。これは主イエスの緊急命令でした。換言すれば「生まれ変わりなさい」ということです。深夜こっそりイエスを訪ねたニコデモに、主イエスが言われた言葉です。あなたは今、何を自分の人生のゴールとして日々の歩みを進めていますか?それは真に幸福に至る正しい目標で、正しい道なのですか?

 第二は、「天の国は近づいた」というメッセージです。「天の国」あるいは「神の国」とは、〈神が王として、恵みと力をもって支配されること〉であり、それは既にイエスの登場により、私たちの間に、私たちの目の前に、既に始まっていると主イエスは言われるのです。私たちはこの言葉を信じて、主イエスの愛の水の中に、どっぷりと身を沈めるべきであります。

 第三は、イエス以降、世界各地で伝道者は聖書を基に神様のこと、イエス様のことを説教し、伝道してきましたが、その究極の中身は、どの時代であろうと、どの国であろうと、この主イエスの言葉と同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り続けてきた、ということです。たとえ、牧師によって重きを置くところが違っていてもです。これは、「イエスこそキリスト(救い主)である、「十字架の傍にのみ本当の愛と幸せがある」、「このイエスという方以外に本当の救い、本当の幸せはない」ということです。アーメンです!



2013年1月20日の説教要旨。
 聖書:『マタイ』4:1〜11。

 説教:「主イエス、誘惑を受ける」。


 悪魔とは何でしょうか?聖書巻末の用語解説では、「『中傷する者』の意味で、人間を誘惑して神に反逆させる者」と定義しています。『ヨブ記』を見ると、悪魔(サタン)は神の了解を得て、神の許しの範囲で人に試練を与え、人を神から引き離そうとする者、とも読み取れます。
 さて、今日の聖書箇所、特にマタイ4;1〜2から三つのことを学びましょう。

 (1)神は愛する子イエス様さえ試される方です。ならば、同じように愛して下さる私たちにも試練を与えるはずです。『詩編』12:7に「土の炉で七たび練り清めた銀」とあるように、公生涯を始める、苦難の僕の生活を始めるイエスが、たった一人きりになって、荒れ野で試練を受けることは必要でした。それは、より強く、より清く、より善くするための神の計らいでした。従って、われわれ人間にとっての試練もまた、刑罰ではなく恵みであります。

 (2)試練や誘惑は、力のある者に、より大きく与えられるようです。しかも、その人の最も重要とする最も誇りとするところを突いてきます。主イエスには、石をパンに変えるような奇跡をもって人を導くという誘惑が与えられました。ヴェートーヴェンには、音楽家にとって最も鋭敏であり人より何番もすぐれた聴覚に、神は試練を与えました。主イエスは奇跡の連続で人を引っ張る道は選びませんでした。ヴェートーヴェンも試練に負けず信仰を守り通し、次々と名曲を書き残しました。


 (3)私たち人間もそうですが、イエス様はご自身、荒野の誘惑に会ったからこそ、そして十字架の試練を予知していたからこそ、ご生涯すべてが試練の連続であったからこそ、より深く、試みに会っている人々を理解し寄り添うことが出来たのではないでしょうか?私たちは、試練の只中にある時はとてもそんな気持ちにはなれませんが、やがて、試練の中に神の愛が働いていたことを自覚できる人は幸いだと思います。


2013年1月13日の説教要旨
 聖書:『マタイ』3:13〜17。

 説教:「イエス様洗礼を受ける」。


今日の聖書から3つのことを学びたいと思います。
 
(1)バプテスマのヨハネは、父ゼカリアが預言した(ルカ1:76〜77)通り、「主に先立って行き、その道を整え」、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせた」預言者でした。ルカ3章にある彼の言葉を見ると、彼が愛の大切さと、義の大切さの両方をを説いた人物であることも分かります。ナジル人として、全てを主に献げ、命を賭けてヘロデ王の不正・不道徳を批判した人でもありました。
 
 (2)主イエスはなぜ洗礼を受けたのでしょうか?母や兄弟から無理強いされて仕方なく受洗した、と考える人もいるようですが、それは違うでしょう。
 第一には、イエスご自身が受洗することで、私たちと同じ立場に立って下さったということでしょう。
 第二には、バプテスマのヨハネに代わって、誰もが通れる救いの道を開拓するためであり、
 第三には、『イザヤ書』に予告されている〈苦難の僕〉としての人生を歩み出すためのものであったと思います。
 
 主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとに行くことはできない」(『ヨハネ』14:6)と語られたようにです。

 (3)洗礼には
   @イエス・キリストと一体になること、
   Aキリストの体なる教会に加わること、
   B新しく生まれること、
   C罪を許されること、
   D聖霊を受けること、の意味があると思います。
 カルヴァンは「洗礼によってわたしたちはキリストに接ぎ木される」と説き、ルターは「わたしたちが受けた洗礼こそ、疑いや罪に打ち勝つ力であるあ」と書いています。

 洗礼はイエスの弟子として生活する出発点です。ゴールではありません。イエス様が見本を示して下さったように、求道の皆様には、進んで、喜んで、受洗への道を歩んで欲しいと願う者であります。



2013年1月6日の説教要旨
 聖書: 『申命記』11:11〜12。
 説教: 「新年に神の祝福を」



 新年明けましておめでとうございます!皆さま新たな目標を持って新しい年を歩み出したことでしょう。今日の聖書は、モーセの訣別説教の一部であり、モーセの遺言とも言える箇所ですが、新しい年を歩み出すに当たり、大きな指針を与えてくれる言葉です。聖書の中の「新しい地に入る」というところを、「新しい年に入る」と置き換えて、以下、3点を述べたいと思います。

 (1)11節に「山も谷もある」と書かれています。新しい年もきっと喜びの山もあるでしょうし、悲しみの谷もあるでしょう。昨年の正月にはタスキもつなげず、20チーム中19位に終わった日体大が、今年の箱根駅伝で誰も予想しない優勝を勝ち得たのも、苦難をバネにして、苦難から多くを学び取って、勝利を手にしたのだと思います。人生も同じです。イエス様を信じるお互いは、悲しみの後に喜びが待っていることを知っています。喜びも悲しみも、背後でイエス様が支配しておられます。小島誠志先生は「苦難を、救いへのプロセスとして受け止めることの出来る者は幸いであります」と書いています。

 (2)11節後半に「(そこは)天から降る雨で潤されている」と書かれています。聖書は雨を単に空から降る雨とは考えず、聖霊と考えます。新しい年を私たちが歩み出した時、そこには既に神さまの恵みの聖霊が充満しており、私たちを包み込んでくださると言うのです。ならば、私たちの口を愚痴や不平で満たすことは消え、自然と、神への感謝と喜びに満たされるはずです。聖歌604番の「望みも消えゆくまでに」の作者は、「数えよ主の恵み、数えてみよ主の恵み、つぶやきなどいかであらん」と歌っています。

 (3)12節でモーセは「主が御心にかけ、常に目を注いでおられる」と書いています。新しい年にも、既に主の愛の眼差しが届いています。苦難を背負ったハガルに愛の目を注がれた「エル・ロイ」なる神は、この一年も、私たち一人一人を御心にかててくださり、常に愛の目を注いでいてくださる方であります。苦しみの原因であったサライから逃げ出してきたハガルに、主は「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と諭しています。苦難から逃れるのではなく、苦難の中に生きよ、と言っています。苦難に戻り、苦難に生き抜いたハガルに、神さまは息子イシマエルに大きな子孫を与えるという大きな祝福を与えました。

 新しい年も、お互い、「万軍の主」である神さまの愛の眼差しを信頼しきって、のびのびと、力を抜いて生きてゆきたいものです。




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