2015年の説教要旨

   
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週報に掲載された内容を転載します。
(2012年8月5日週報から掲載開始。)



 
    
 
  2月1日の説教要旨
   聖 書   マタイによる福音書 5:43〜46
   説教題  『愛と迫害』 


 ここは山上の説教の一部です。「敵を愛し」(44節)の愛 は、ギリシャ語では「アガペー」で、自分が好きになれ ない人、自分を愛してくれない人を愛する力のことで す。分かっていても行うことは至難の業です。今日の 聖書箇所から三つのことを申し上げます。


  第一は、イエス様を信じ教会に通っている我々こそ、 45節で言う「善人・正しい人」だと内心思いがちですが、 「父は、正しくない者、つまり私どもを愛し、不信仰の 故に暗い生活をしていたそこに、太陽をのぼらせてく ださったのです。罪の故に枯渇していたいのちを甦ら せる雨を降らせてくださったのです。悪い者・正しくな い者、それは私ども以外の誰であったというのでしょ う」(加藤常昭先生の説教から)という立場に立たない  と、ここを正しく理解することは出来ないと思います。

  第二に、イエス様はここで「敵を愛する努力をしなさ い」と言われたのであって、「好きになりなさい」とは言 っておられないことです。渡辺和子さんは「好きは生 理的・感情的なものであり、愛するは人格的・意志的な ものと言える。問題は、好きでなくても相手を愛する 努力をしているかどうかだ。キリストが『敵を愛しな さい』と言われても、『好きになりなさい』といわれな かったことで私は救われている」(『忘れかけていた大 切なこと』より)と書いている。「敵を愛するなんて不 可能!」と最初からギブアップするのではなく、愛する 努力をイエス様は求めておられるのである。

  第三に、敵、つまり私たちを迫害する者たちへの対 応である。私たちは憎い敵に対し、2倍・3倍の仕返しを したくなる者ですが、イエス様が身を以て示されたよ うに、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任 せなさい。『復讐はわたしのすること、私が報復する』 と主は言われる」(『ローマ』12:19)という聖句に立つ べきです。サウル王に命を狙われていたダビデが、平 和の挨拶をさせるために遣わした10人の部下を辱めた ナバルに、直接報復することを思いとどまったように (『サムエル記上』25章』、同じダビデが息子アブサロ ムに命を狙われてエルサレムを涙を流しながら裸足で 逃げ延びる中、ひどい言葉を浴びせかけたシムイを見 逃したように(『サムエル記下』16章)、〈裁きは天にあ り〉と自らを鎮めることが大切だと思わされました。

 
  1月18日週の説教要旨
   聖 書   ルカによる福音書 3:15〜22。
   説教題  「わたしの心に適う者」


  21・22節を中心に三つのことをお話ししたいと思い ます。

 第一は、21節の「民衆が皆洗礼を受け」の皆です。どう して皆が受洗したのか?ということです。日本の教会 に仕える者の一人として、受洗者が少ないことを痛感 させられ続け、一人でも与えられれば、奇跡のように 感じる者だからです。「民衆はメシアを待ち望んでいて、 ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないか と、皆心の中で考えていた」(15節)こともも大きな原因 でしょう。ヨハネのナジル人としての荒々しい風貌や、 「蝮の子らよ」(7節)と呼びつけるような厳しい言葉が、 却って人々の関心を集めたのかも知れません。でも一 番大きなことは、「神の言葉が・・ヨハネに降った」(2節) ことにあるでしょう。

 第二は、同じ21節の「イエスも洗礼を受け」です。神の 一人子であるイエス様が何故〈悔い改めのバプテスマ〉 を受けたのか?です。そんな必要は全く無かったので はないか?と考えます。30歳になっていたイエス(23節) は、ヨハネの洗礼運動の中から、いよいよ自分はナザ レの村を去って、いわば〈出家〉をして、神の子とし ての公生涯に入る時が来たのだ、と示されたのではな いかと考えます。

 第三は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適  う者」という聖句の意味です。前半は『詩編』2:7の引 用で、後半は『イザヤ書』42の「僕の歌」からの引用で す。イエス様は神の愛して止まない一人子、「愛子」(あ いし)でした。でも神が「僕の歌」を引用したことは、イ エス様が人間の罪をその身に負って、十字架で死んで いくことを告げたということです。十字架は突然やっ て来たのではなく、公生涯の初めから、神によって示 されたものだったのです。その辛い役割をイエスは引 き受け、いよいよ、苦難と十字架の道を歩み出したの が、今日の聖書で示されていることです。

 山室機恵子は47歳の若さで天に召される時、「幸福はた だ十字架の傍にあります」と言い残しました。たくさん の子どもを産み、夫軍平を助け、『平民の福音』の出版 を助け、結核病棟建設に走り回っている最中の死でし たが、彼女の遺言のように、イエス様が十字架で死ん でくださった故に、私たちの今があると、改めて強く 思わされました。
 
 1月11日の説教要旨
  聖 書  詩編67:1〜8
  説教題  「すべての民がこぞって」


 この詩編の作者は、神は私たちを愛するが故に、一方的に、憐れみ・祝福・み顔の輝き・公平な裁き・豊かな収穫、を与えてくださる、だから私たちは、神を正しく知り、感謝を献げ、畏れ敬うべきだと書いています。これが神からの一方通行になると、人間の心はパウロが『ロマ書』1:21で書いたように、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗く」なってしまいます。詩人は繰り返し、〈すべての民〉(7回)が〈こぞって〉(2回)主を正しく知り、崇め、感謝することを勧めています。

 新島は1876年に学生8名・教師2名で同志社英学校を開校させる式で、「日本へ帰るとき、最後の別れの演説をした時のことです。私が日本へ帰ってキリスト教主義の大学を建てたいと言いますと、みんながしっかりやってくれと300ドル、500ドルと、たくさんの献金をしてくれました。しかし、その時一番嬉しかったのは、粗末な着物を着たお百姓のおじいさんが、ふしくれだった手で渡してくれた2ドルの献金でした。その2ドルはおじいさんが村へ帰る汽車賃だったのです。もうひとりのおばあさんは、たった2ドルで恥ずかしくて会場では出せなかったと、外へ出た私を追いかけてきてくれました。この二人の貧しいおじいさんとおばあさんの祈りのこもった2ドルの献金を、私たちは決して忘れてはならぬと思います」と述べています。

新島の10年ものアメリカ留学を可能にしたのは、主を信じるベルリン号のセボリ−船長、ロバ−号のテイラー船長、アメリカでの学費を出してくれたハーディー社長、そしてこのおじいさんやおばあさんの主にある愛でした。今その愛の輪に、日本人の学生8名・教師2名も加わり、皆こぞって、主を正しく知り、心から感謝し、畏れ敬っています。

この詩編で求められている地上の楽園がここに実現した!、と私は思います。


 
 
  1月4日の説教要旨
   聖 書 コリントの信徒への手紙 U 5:17。
   説教題  『新年と新しい出発』

 キリスト教の暦では一年はアドヴェントから始まるのですが、日本に生まれ育った私たちは、どうしても元日から一年が始まるという意識をもってしまいます。今日は、聖書から「新しく生きるとは?」、「どうしたら新しく生きられるのか?」を学びたいと思います。

 イエス様はニコデモに「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(『ヨハネ』3:3)と言いました。今日の聖書でパウロは、「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言っています。英語の訳では「be in Christ」です。「キリストにあれば」、「キリストに抱かれていれば」、誰も、例外なしに、新しくされると言うのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、この「もの」とは何でしょうか。〈価値観〉と言い換えて良いでしょう。価値観の逆転こそが、新しく生まれ変わる、新しく創造されることです。

 1956年1月8日南米エクアドルで、伝道のためにジャングルに入った5人の宣教師が、凶暴で戦争好きなアウカ族の人たちに槍で突き殺される事件が起きました。2年後、その中の一人の妹レイチェル・セイントが、福音を携えて再びジャングルに入りました。今度はうまく進み、部隊長はじめアウカ族の多くの人が福音を信じ、キリスト者に変えられました。レイチェルは言いました。「私の兄たち5人が槍で突き殺された時、彼らは銃を持っていました。正当防衛で銃を撃つこともできたのです。でもそれは、愛を伝える宣教師のすることではないと槍で突かれて殺されていったのです」と。この話を聞いた彼らは、涙を流して自分たちの罪を悔い改め、部族としても戦争を止め、隣と部族と仲良く暮らすように新しくされたとのことです。

 イエス様に出会って新しくされたニコデモが、最早誰の目も気にせず、イエス様の死体を葬るために来たように、アウカ族の人々が個人としても新しくされ、部族としても新しくされたように、この年、私たちはキリストに繋がって、日々新たにされて生きてゆきましょう。

  
 





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