2015年の説教要旨

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週報に掲載された内容を転載します。(2012年8月5日週報から掲載開始。)
新井秀牧師転任のために、3月8日の説教要旨でもって終了とさせていただきます。



 
 
  3月8日の説教要旨
   聖書   ルカによる福音書 9:18〜22。 
   説教  「あなたはわたしを何者だと言うか」


 私たちは人間は、自分が周囲にどう思われどう評価されているかがとても気になる存在です。好評を得れば喜びますし、悪評には「何も分かってない!」と腹を立てる者です。もうすぐエルサレムでの十字架刑に向かうイエス様は尚更、自分が正しく理解されているのか知っておきたかったのでしょう。

 最初にイエス様は、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに問いました。答えは旧約時代の預言者の再来だと思っているというものでした。群衆はイエスを、ついこの前までナザレの町で、大工のヨセフの息子として暮らしていたごく普通の人間だと思っていましたし、同時に、繰り返しイエス様のなさった奇跡を見て、「この人はただの人間ではない!」という理解を持ち始めていました。

 弟子たちの答えを殆ど聞き流すようにして、イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いました。弟子たちはきっと顔を見合わせ、暫くの沈黙があったのでしょう。やがてペトロが弟子集団を代表して、あなたは「神からのメシアです」と答えました。表面的には完璧な答えでした。でも、弟子たちの期待していたキリスト像と、実際のイエスの言動、とりわけ十字架の死は、180度異なるものでした。

 イエス様は昔も今も、私たち一人ひとりに「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問うておられます。ローマ帝国の迫害下にあったキリスト者たちはカタコンベの下に3重・5重の洞穴を掘り、そこで250年もの間、礼拝を守り続け、信仰を守り通しました。洞穴の総延長は800qにも及びます。壁には羊・ぶどう・魚の絵が多く見られます。ギリシャ語で「イエス、キリスト、神、(の)子、救い主」の5文字の頭文字を合わせると魚を意味する言葉になるため、魚を信仰を告白し、信仰を守り抜くシンボルとして描いたのでしょう。

 今日もイエス様は、私たち一人ひとりに「あなたはわたしを何者と言うか」と問われています。元気よく、感謝に満ちて、「あなたこそ私の個人的な救い主(Personal Savior)です。イエス様、あなたに出会ってわたしの人生は大きく変えられ、希望と感謝の人生になったのです!有難うございます!」と答えられるお互いでありたいと願います。


 
  3月1日の説教要旨
    聖書  ルカによる福音書 11:14〜26。
    説教  「悪と戦うキリスト」


 私たちは今「受難節」の中にあります。イエス様の御苦しみと深い愛に思いを馳せながら毎日を過ごしたいと思います。

 今日の聖書箇所は「ベルゼブル論争」として知られています。口が利けない人(『マタイ』によれば目も見えなかった)を癒やしたイエスに、「彼ら」(おそらく律法学者やパリサイ人でしょう)は激しい妬みを覚え、イエスを中傷し、何とか引きずり下ろそうと画策している所です。

 第一の言いがかりは、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している(=病気を癒やしている)」でした。悪霊とぐるになって、悪霊の力を借りて病を癒やしているのだ、と言うのです。これに対してイエスは、もしそうであれば、それは『内輪もめ』であり、あり得ないこと、矛盾していることだと、一撃で彼らを論破しました。

 第二の言いがかりは、「天からのしるしを見せろ」というものでした。十字架にかかったイエス様にも人々は、「待て、エリアが彼を降ろしにに来るかどうか、見ていよう」(『マルコ』15:36)と天からのしるしを求めました。それらに対してイエス様は終始一貫、天のしるしを求めませんでした。イエス様は「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)、「他に何が必要なのか?」と申しました。神の一人子イエス様がそこにいることは、既に神の国(神の支配)が始まっている、と言われるのです。ある訳は「神の国はあなたたちの手の届くところまで来ている」となっています。『ヨハネ黙示録』3:20の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」との言葉を思い起こします。手を伸ばせば届くところまでイエス様は来ておられるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」(『ルカ』11:9)と、イエス様は私たちが一歩前に出ること、イエス様を求める行動を起こすことを求めておられるのです。

 
  2月22日の説教要約
    聖書  ルカによる福音書 4:1〜13。
    説教  「荒れ野の誘惑」

 受難節に入りました。2月18日(水)の「灰の水曜日」から、日曜日を含んで46日、日曜日を別にすると40日間(四旬節)がキリストの苦しみと死を記念する期間です。「レント」(「春」の意)とも呼ばれ、死から生へ、悲しみから喜びへ変わる時でもあります。

 イエス様は神の子であるが故に、40日も荒れ野で悪魔の誘惑にあわれました。
 第一は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」との誘惑でした。イエス様の時代も今も、貧困と飢えが世界をおおっています。「あなたは神の子なのでしょう。だったらその力でこの世の飢えを一気に解決なさったらどうです。そうしたら人々は驚き、感動して、あたたに従うはずですよ」、悪魔はこう囁いたのです。しかしイエスは、『申命記』8:3を引用して、「人はパンだけで生きるものではない。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えました。出エジプトの民を想い出します。「喉が渇いた」、「お腹が空いた」、「エジプトにいた時のほうがましだった」、不平不満の連続でした。神は彼らにマナを降らせ、うずらを飛ばして要求を満たしましたが、彼らの不満、心の飢え、は解決しませんでした。彼らに最も必要だったものは「神の言葉」であり、「命のパン」でした。
 第二は、「もし、わたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄をあなたに与えよう」というものでした。悪魔にひざまづけ、悪魔と妥協しろ、と言うのです。しかしイエス様は、「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と言われたお方です。何よりも聖さを大切にし、罪はどこまでも忌まわしいと信じ守り抜いたお方でした。
 第三は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という誘惑でした。宮のてっぺんからギデロンの谷底までは140mの急崖でした。十字架に掛けられた時も、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」という誘惑に晒されましたが、共にその誘惑に打ち勝たれました。
 イエス様は終始一貫、神の子にしか出来ない奇跡を人々に見せびらかせて、人々の心を引きつけ、伝道する、という方法は採りませんでした。否、断固拒否しました。イエス様のなさったことは、ナザレとその周辺という世界の片隅で、目立たず、いやむしろ隠れるようにして、病人を癒やし、取税人や罪人と共に食事をし、その家に泊まり、悲しみにくれる人の傍らで話に耳を傾けることでした。

レントの今、イエス様のお苦しみと愛の豊かさに思いを寄せて、一日一日を過ごして参りましょう。

 
 2月8日の説教要旨
    聖書   ルカによる福音書 5:12〜16。 
    説教   「重い皮膚病を癒すイエス様」


 ここで「重い皮膚病」と訳されたギリシャ語では「レプラ」です。口語訳や初期の新共同訳では「ライ病」となっていました。きっと旧約のヨブが「素焼きのかけらで体中をかきむしった」(『ヨブ記』2:8)ような、ひどい皮膚病だったのでしょう。今日の聖書から三つのことを強く示されました。

 第一は、この病人が「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12節)とイエス様に願ったことです。これは、「イエス様、もしあなたが私の病を癒やすべきだとお思いになるなら、必ずそうなります」という信仰の告白です。彼は癒しのイニシャティブはイエス様にあることをきちんと弁えていました。我々は自分が望むことを叶えて欲しいと祈りますが、イエス様はそれが本当に我々に必要なら、それを叶えてくださる方です。

 第二は、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」(13節)たことです。この病人は家族にも捨てられ、宿営の外に一人寂しく住み、移動する時は「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(『レビ記』13:45)と叫ぶことが義務づけられた人です。普通なら後ずさりするところです。「近寄るな―!」と叫んで逃げ出すところです。でもイエス様は、自分の方からこの病人に近づき、手を差し伸べ、患部に触れ、癒やされたのです。ここにイエス様の愛があります。20代の若い日に私に洗礼を授けてくださった野本数男牧師は、説教の中で「光田健輔という長島愛生園のクリスチャンの園長は、患者の膿を自分の口ですすったのです!」と教えてくださったことを思い起こします。

 第三は、名著『いきがいについて』で知られる神谷美恵子さんのことです。彼女は20歳の時、無教会の伝道師であった叔父に連れられ「多摩全生園」に行きます。そこで大きな衝撃を受け、自分はこの人たちと共に生きるべきだと召命を感じました。「医者になってあの人たちと共に生きたい」と語る彼女に、当時通っていた津田塾大学の先生も両親も猛反対でした。でも彼女はその意志を持ち続け、遂に医者になりました。長く瀬戸内海の長島愛生園で精神科医として働き、患者の悩み苦しみに寄り添う人生を送られました。

 私は正直今でも、重い皮膚病の人々からは視線をそらし、後ずさりしてしまうような信仰のうすい者です。イエス様が自分から近づき、手を伸ばし、患部に直接触れ、癒やされた愛に少しでも近づきたいと願う者です。

 
  2月1日の説教要旨
   聖 書   マタイによる福音書 5:43〜46
   説教題  『愛と迫害』 


 ここは山上の説教の一部です。「敵を愛し」(44節)の愛 は、ギリシャ語では「アガペー」で、自分が好きになれ ない人、自分を愛してくれない人を愛する力のことで す。分かっていても行うことは至難の業です。今日の 聖書箇所から三つのことを申し上げます。


  第一は、イエス様を信じ教会に通っている我々こそ、 45節で言う「善人・正しい人」だと内心思いがちですが、 「父は、正しくない者、つまり私どもを愛し、不信仰の 故に暗い生活をしていたそこに、太陽をのぼらせてく ださったのです。罪の故に枯渇していたいのちを甦ら せる雨を降らせてくださったのです。悪い者・正しくな い者、それは私ども以外の誰であったというのでしょ う」(加藤常昭先生の説教から)という立場に立たない  と、ここを正しく理解することは出来ないと思います。

  第二に、イエス様はここで「敵を愛する努力をしなさ い」と言われたのであって、「好きになりなさい」とは言 っておられないことです。渡辺和子さんは「好きは生 理的・感情的なものであり、愛するは人格的・意志的な ものと言える。問題は、好きでなくても相手を愛する 努力をしているかどうかだ。キリストが『敵を愛しな さい』と言われても、『好きになりなさい』といわれな かったことで私は救われている」(『忘れかけていた大 切なこと』より)と書いている。「敵を愛するなんて不 可能!」と最初からギブアップするのではなく、愛する 努力をイエス様は求めておられるのである。

  第三に、敵、つまり私たちを迫害する者たちへの対 応である。私たちは憎い敵に対し、2倍・3倍の仕返しを したくなる者ですが、イエス様が身を以て示されたよ うに、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任 せなさい。『復讐はわたしのすること、私が報復する』 と主は言われる」(『ローマ』12:19)という聖句に立つ べきです。サウル王に命を狙われていたダビデが、平 和の挨拶をさせるために遣わした10人の部下を辱めた ナバルに、直接報復することを思いとどまったように (『サムエル記上』25章』、同じダビデが息子アブサロ ムに命を狙われてエルサレムを涙を流しながら裸足で 逃げ延びる中、ひどい言葉を浴びせかけたシムイを見 逃したように(『サムエル記下』16章)、〈裁きは天にあ り〉と自らを鎮めることが大切だと思わされました。

 
  1月18日週の説教要旨
   聖 書   ルカによる福音書 3:15〜22。
   説教題  「わたしの心に適う者」


  21・22節を中心に三つのことをお話ししたいと思い ます。

 第一は、21節の「民衆が皆洗礼を受け」の皆です。どう して皆が受洗したのか?ということです。日本の教会 に仕える者の一人として、受洗者が少ないことを痛感 させられ続け、一人でも与えられれば、奇跡のように 感じる者だからです。「民衆はメシアを待ち望んでいて、 ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないか と、皆心の中で考えていた」(15節)こともも大きな原因 でしょう。ヨハネのナジル人としての荒々しい風貌や、 「蝮の子らよ」(7節)と呼びつけるような厳しい言葉が、 却って人々の関心を集めたのかも知れません。でも一 番大きなことは、「神の言葉が・・ヨハネに降った」(2節) ことにあるでしょう。

 第二は、同じ21節の「イエスも洗礼を受け」です。神の 一人子であるイエス様が何故〈悔い改めのバプテスマ〉 を受けたのか?です。そんな必要は全く無かったので はないか?と考えます。30歳になっていたイエス(23節) は、ヨハネの洗礼運動の中から、いよいよ自分はナザ レの村を去って、いわば〈出家〉をして、神の子とし ての公生涯に入る時が来たのだ、と示されたのではな いかと考えます。

 第三は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適  う者」という聖句の意味です。前半は『詩編』2:7の引 用で、後半は『イザヤ書』42の「僕の歌」からの引用で す。イエス様は神の愛して止まない一人子、「愛子」(あ いし)でした。でも神が「僕の歌」を引用したことは、イ エス様が人間の罪をその身に負って、十字架で死んで いくことを告げたということです。十字架は突然やっ て来たのではなく、公生涯の初めから、神によって示 されたものだったのです。その辛い役割をイエスは引 き受け、いよいよ、苦難と十字架の道を歩み出したの が、今日の聖書で示されていることです。

 山室機恵子は47歳の若さで天に召される時、「幸福はた だ十字架の傍にあります」と言い残しました。たくさん の子どもを産み、夫軍平を助け、『平民の福音』の出版 を助け、結核病棟建設に走り回っている最中の死でし たが、彼女の遺言のように、イエス様が十字架で死ん でくださった故に、私たちの今があると、改めて強く 思わされました。
 
 1月11日の説教要旨
  聖 書  詩編67:1〜8
  説教題  「すべての民がこぞって」


 この詩編の作者は、神は私たちを愛するが故に、一方的に、憐れみ・祝福・み顔の輝き・公平な裁き・豊かな収穫、を与えてくださる、だから私たちは、神を正しく知り、感謝を献げ、畏れ敬うべきだと書いています。これが神からの一方通行になると、人間の心はパウロが『ロマ書』1:21で書いたように、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗く」なってしまいます。詩人は繰り返し、〈すべての民〉(7回)が〈こぞって〉(2回)主を正しく知り、崇め、感謝することを勧めています。

 新島は1876年に学生8名・教師2名で同志社英学校を開校させる式で、「日本へ帰るとき、最後の別れの演説をした時のことです。私が日本へ帰ってキリスト教主義の大学を建てたいと言いますと、みんながしっかりやってくれと300ドル、500ドルと、たくさんの献金をしてくれました。しかし、その時一番嬉しかったのは、粗末な着物を着たお百姓のおじいさんが、ふしくれだった手で渡してくれた2ドルの献金でした。その2ドルはおじいさんが村へ帰る汽車賃だったのです。もうひとりのおばあさんは、たった2ドルで恥ずかしくて会場では出せなかったと、外へ出た私を追いかけてきてくれました。この二人の貧しいおじいさんとおばあさんの祈りのこもった2ドルの献金を、私たちは決して忘れてはならぬと思います」と述べています。

新島の10年ものアメリカ留学を可能にしたのは、主を信じるベルリン号のセボリ−船長、ロバ−号のテイラー船長、アメリカでの学費を出してくれたハーディー社長、そしてこのおじいさんやおばあさんの主にある愛でした。今その愛の輪に、日本人の学生8名・教師2名も加わり、皆こぞって、主を正しく知り、心から感謝し、畏れ敬っています。

この詩編で求められている地上の楽園がここに実現した!、と私は思います。


 
 
  1月4日の説教要旨
   聖 書 コリントの信徒への手紙 U 5:17。
   説教題  『新年と新しい出発』

 キリスト教の暦では一年はアドヴェントから始まるのですが、日本に生まれ育った私たちは、どうしても元日から一年が始まるという意識をもってしまいます。今日は、聖書から「新しく生きるとは?」、「どうしたら新しく生きられるのか?」を学びたいと思います。

 イエス様はニコデモに「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(『ヨハネ』3:3)と言いました。今日の聖書でパウロは、「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言っています。英語の訳では「be in Christ」です。「キリストにあれば」、「キリストに抱かれていれば」、誰も、例外なしに、新しくされると言うのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、この「もの」とは何でしょうか。〈価値観〉と言い換えて良いでしょう。価値観の逆転こそが、新しく生まれ変わる、新しく創造されることです。

 1956年1月8日南米エクアドルで、伝道のためにジャングルに入った5人の宣教師が、凶暴で戦争好きなアウカ族の人たちに槍で突き殺される事件が起きました。2年後、その中の一人の妹レイチェル・セイントが、福音を携えて再びジャングルに入りました。今度はうまく進み、部隊長はじめアウカ族の多くの人が福音を信じ、キリスト者に変えられました。レイチェルは言いました。「私の兄たち5人が槍で突き殺された時、彼らは銃を持っていました。正当防衛で銃を撃つこともできたのです。でもそれは、愛を伝える宣教師のすることではないと槍で突かれて殺されていったのです」と。この話を聞いた彼らは、涙を流して自分たちの罪を悔い改め、部族としても戦争を止め、隣と部族と仲良く暮らすように新しくされたとのことです。

 イエス様に出会って新しくされたニコデモが、最早誰の目も気にせず、イエス様の死体を葬るために来たように、アウカ族の人々が個人としても新しくされ、部族としても新しくされたように、この年、私たちはキリストに繋がって、日々新たにされて生きてゆきましょう。

  
 





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