牧師東西南北( 2002年7月7日 週報より)

 伝道について
 「伝道」という言葉のイメージの混乱が、日本基督教団の弱体化を引き起こしている。1960年の万博博覧会頃まで、「伝道」とは未信者に福音を宣べ伝え、洗礼を授け、一人でも多くクリスチャンを増やし教会に連ならせ教会を強くしていくことであった。伝道のために教会員は、主日礼拝を忠実に守り、教会形成に励む意味で素朴に使われてきた。
 ところが、万博間題以後、この「伝道」という言葉に対抗して「宣教」という言葉が使われ出した。「宣教」とは、教会が己の強化だけを目的にするのではなく、むしろ信徒がそれぞれが遣わされている場でクリスチャンとしての良い証をする。特に社会や社会的弱者に日を向け、少しでも社会正義を実現することにアクセントが置かれた。ここで間われたのは、教会はどこを見ているのが、自己目的か隣人・社会かであった。
 今日も、この「伝道」と「宣教」の対立の溝は埋まっていない。実際には、牧師も二者択一の色分けがなされ「福音派」と「社会派」に分けられ、同じ延長線上にある沖縄の「合同のとらえ直し」に反対派・賛成派で安易に色分けがされてしまっている。
 神学校3年の時に読んだ若き神学者ボンフェファーの言葉「今日、私たちキリスト者に求められるのは、祈ることと正義を行うことである」が、私の伝道観を決定づけた。彼は祈ってゆく、本気で祈ってゆくと自ずと行動が求められ正義を行うことに導かれて行く。一方、その正義を本気で求めて行く、どうにも人間の力では解決出来ない現実の壁にぶつかり、自ずと祈ることに導かれて行く。「祈る」ことと「正義を行うこと」は対立することではなく、生きる一つの関係であると。
 戻ってこの「伝道」と「宣教」も同様で、「伝道」と「宣教」は、一つなのである。本気で「伝道」と「宣教」をしない中途半端な姿勢のために、両者が一つとならずに混乱を招いているのではないか。


 

 


もどる

inserted by FC2 system