牧師東西南北( 2002年9月29日 週報より)

 4年前、教団総会議員として総会に出席した時、議案として「日本基督教団は21世紀に向けて青年伝道の使命にカを注ぐ件」が上程された。その内容は、教団の各教会の教勢が落ちており、このままでは将来が危ういので青年に伝道しようという内容であった。結果として可決されたが、私は反対した。
 @提案者の語る「伝道」は、教会にクリスチャン青年の人数を増やすことを目的とした旧来の伝道論であること。人数は大切であるが、それは恵みの結果であり、人数集めが目的となった伝道は、やがて本質を失う。Aパン屋やパンを売る。幼稚園が子どもを保育する。教会が伝道する。当たり前である。それをわざわざ総会で決議するような事柄なのか。逆にそれほど教団は末期的なのだろうか。B「伝道、伝道」とかけ声を大きくしたスローガンをいくら掲げても、義務的させられる伝道には、主への感謝と信仰の喜びは生まれてこない。この感謝と喜びがなければ、恵みもない。
 5・6年前まで、「信徒に伝道という前に、まず牧師の私が伝える内容である、福音に生きなければ。他人に伝道する前にまず自分にもっともっと伝道しなければ」「まず私が立派な牧師にならなければ」と思い、そのプレシヤーで落ち込み、自家中毒をおこしていたように思える。
 今は肩のカが抜け、楽になり、信仰者としての喜びも感じるようになった。「立派な牧師、言われなくてもいい。あれでも牧師かと言われてもいい。ありのままの私でいい。ダメ牧師でも赦されているんだ」と少し開き直っている。従来の「信仰深い」とか「敬虔」とかを気にして、堅苦しく小心に生きるより、イキイキと生き働くことがもっと大切と考えるようになった。そして、美味しい食べ物を見つけたら「本当に美味しいが、ら、一緒に行こう」と誘うように、「礼拝は本当にいいよ。一緒に御言葉を聴こう」と誘えたらと思っている。「信徒の友」10月号の特集は「伝道」。そのサブタイトルは「隣人と共に御言葉を聴く」である。


 

 


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