牧師東西南北( 2004年1月11日 週報より)


 先週は今年はじめての聖餐式。聖餐式の司式をしながら、私ははじめて泣きました。涙で式文の文字が見えずに困りました。

原因は約1年ぶりで礼拝に参加して下さった李雲さんです。李さんは中国のハルビンから須賀川の工務店に出稼ぎに来ています。故郷の教会の教会員で聖歌隊で知り合った奥さんと結婚したばかりです。来日したばかりの頃は、自分の聖書を持って数度礼拝に出席されたのにどうしたのだろうと心配していました。聞くと忙しくて日曜日も休みが取れないとのこと。

 説教は第2イザヤで、イスラエルの民が遠い異国のパビロンで苦しい生活を強いられている時、希望を失うことがないようにと語ったのがこのイザヤであったと話したばかりであった。日本語がまだ解らない李さんは、下を向いて静かに聞いておらえたが、聖餐式がはじまった途端、離れた聖餐卓に立って司式する私にも聞こえるぐらいに鳴咽しながら泣いている。

 この聖餐は、表現不可能な深く豊かな神の恵みを象徴(シンボル)として表しています。教会はこの聖餐式を時代を超えて守り続け、現在も世界中の教会が国や文化、言語の相違を越えて同じように行っている。各地の教会が同じようにこの式を行うことで、地理的空間や人種等相違を越えて「神の民」として一つになることをも意味している。

 李さんは聖餐を受けながら、遠い故郷の教会で同じように聖餐式にのぞんでいる奥さんや家族の人達と一緒にパンと葡萄酒にあずかっていたのです。聖餐は時空を越えるのです。家族で共に過ごす正月。李さんの正月はあの時だったのでしよう。


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