牧師東西南北( 2004年1月25日 週報より)


聖書を読んで考えました。
 主イエスは「子供のように神の国を受け入れなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と言われ、特にここでは「子どものように」が二度繰り返され強調されています。

 いつもこの「子どものように」ならなければと聞くと、一般的に素直で、純真で、全くの信頼をもって神を信じなければ、神の国に入ることは出来ないと読んでしまいました。

 ここでは、「イエスに触れていただくために、人々が子どもを連れて来た」ことからはじまります。同じような場面でイエス様に触れていただく為に寄ってきたのは、体の不自由な人や出自や職業等で差別されていた罪人たちでした。おそらくこの子どもたちも、元気いっぱいの子どもではなく、障碍をもった子や栄養失調など様々な重荷を抱えて子どもであったのでしょう。

 弟子達はこの子どもを遠ざけました。それを主は「憤り」弟子たちを激しく怒りました。この怒りの後に続いた「子どもを私のところに来させなさい。・・子どものように・・・」この言葉の意味は、弟子達にもわかりませんでした。当時、子どもは子どもで一人前とは数えられませんでした。主の前に出る資格なし=神の国に入る資格なし。もっと大人になり立派になってからと思われていたのです。イエスはここで、そうだ、子どもは資格なしだ。しかし、自分こそ神の国に入ることの出来る資格なしと思える人が実は資格があるのだと言っておられるのではないしようか。

 主イエスは、ここで弟子たちの在り方を問うているのです。「子どものように」とは、そう、あなた方が考えるように、子どもは無資格者なんだ。でも神の国は自分が無資格者であることを自覚している者が受け入れられるところなのだ。自分は何も神の国に入れる資格などない、ただ神の愛と憐れみがなければ神の国に入れない者と心から思う者だけが受け入れられるのだと。

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