牧師東西南北( 2005年6月26日 週報より)


 当然として受け止めているものが歴史的に考えたり、世界的に広く見たりした時に特異なものであったりすることがある。教会にもそうしたちょっと驚くものがある。
 大人と子供を分けた教会学校や水曜日の祈祷会はキリスト教界で最近まで無かったものです。
 例えば祈祷会。この教会では「聖書を学び祈る会」と少し長い名称で呼んでいます。日本のプロテスタント教会の伝道初期から主日礼拝と並んでこの祈祷会を大事にしてきました。

 カトリックや聖公会に私たちがイメージするような祈祷会はありません。私たちの祈祷会の原型は、19世紀米国のメソジスト運動等の敬虔主義からの影響なのです。当時の欧米の伝統的な神学にとらわれない自由な祈りと家庭集会が多く生まれ、そうした祈りのうねりが伝道のうねりとなり、海外宣教の情熱につながったのです。アンダーソン宣教師もこのような中から押し出されて福島に来たのでした。

 初代・古代の教会、おおよそ1000年は、祈りは聖職者や修道院が中心で一般信徒は遠ざかっていました。祈りを信徒の手に戻したのは宗教改革でした。それでも信徒が特定の日に集まり、自由な言葉で祈ることは珍しいことでした。

 最近、どの教会も祈祷会出席者の減少に悩んでいます。祈祷絵画内教会も増えました。でも私は、祈祷会は宣教師が残した良き伝統であり財産だと思いますし、教会の存続と生命にかかわる本質的な問題だと受け止めています。

 ただ、祈祷会の現代における意味を考える時、メンバーや形が固定しないでもっと広がりと生き生きとした祈りの場となるような工夫が必要におもいます。


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