牧師東西南北( 2006年1月8日 週報より)



 
今年の1月1日は日曜日であった。礼拝後の交わりの時、たまたま今日の礼拝は「元旦礼拝」が「元日礼拝」が「新年礼拝」かという話題になった。私も特に意識していなかったが、元旦の「旦」に元日の朝を指すのだそうだ。

 礼拝は、10時半からなので正式には「元日礼拝」ではあるがいわき・郡山地区では複雑であるうえ、元日には初詣のイメージがあるので、あえて「新年礼拝」と呼んでいるとのことであった。

 そう言われれば、同じようで微妙に違う言葉がある。たとえば、「我慢」と「忍耐」。「我慢」は今何故そうするべきなのか納得できないために、頑張ってこらえ続けている状態。だから広辞苑では「我慢」の類語は「高慢」とある。「忍耐」は何の為に耐えているのかその意味を知って耐え忍んでいること。野球の西武森元監督が好きな言葉は「忍耐」で「忍」はその字の通り「心に刃(やいば)を隠し持ち続けることだ」と言ったのを思い出し、殺伐として好きになれない。

 キリスト教には「試練」という言葉がある。「我慢」も「忍耐」も神様から養われる機会とし、その労苦の分、やがて大きな喜びと感謝に変えられる恵みとして受け止める、神に信頼する生き方がある野ではないか。

 「伝道」と「宣教」の言葉も微妙に異なる。20年ほど前は、「伝道」には信者獲得のイメージがあり意識してその言葉を「宣教」という言葉に置き換え、社会的視点を持った言葉として意識して使用していたように思う。現在は「ケリュグマ」を「宣教」と訳し、教えを宣べ伝えることとし、「ミッション」を「伝道」と訳し、「宣教」よりも広い総合的概念の言葉とし、キリスト教を教え宣べ伝えるだけでなく、キリストに従う者の生き方である「道」を伝える言葉とされている。

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