牧師東西南北( 2006年6月11日 週報より)


 聖なる逆転
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」    (ヨハネによる福音書/5章16節)

 北極点遠征とインド、ネパール、パミールのヒマラヤ登山を経験した。成功した登山もあれば天侯不良や実カ不足で敗退した山もある。失敗した登山の原因を振り返ると、山にむかう根本の姿勢に「登ってやる」という傲慢な思いがあった。大自然は甘くはない。「登らせていただく」という謙虚さをもって準備と実行しないと痛い目に遭う。

 何でも同様に根本姿勢が最後は問われる。キリスト教教育といつ面でも、キリスト教幼稚園と一般の幼稚園との違いはどこにあるのか。日常の保育で園児を「勤務する園の園児」として保育するのと「神様からお預かりした園児」としてお受けして保育するのでは、微妙に違うはずだ。たとえ手を煩わす園児でもこの子は神様から私に託きれた子と受け止めるなら、その子に向ける眼差しや言葉・態度が達ってくる。その微妙に違うところを意識しながら丁寧に保育して行くところに、キリスト教保育の生命がある。その中で、子どもたちは「愛」という言葉の意味を知る前に、「愛」を体験し「愛」が何であるかを身体で覚え、やがて「愛」を行える者となって行くのだろう。

 牧師も信徒を「神様からお預かりした一人」と受け止め、信徒も牧師を「神様から遣わされた人」と受け止めるところから信頼関係がはじまる。信仰も私が「選んだのではなく」「すでに選ばれていた」ことに気づかせられること。しごとも「させられている」のではなく「用いられている」ことに感謝すること。

 老いも「体が動かない、もの忘れがひどい」のではなく「与えられた役割を使い終え神様におかえししている」との姿勢が大切なのでは。聖なる逆転である。
                  キリスト新聞4回目原稿
 

もどる
inserted by FC2 system