牧師東西南北
福音教会の歴史

2007年は須賀川教会の出発点である福音教会の歴史について、
週報の牧師東西南北に連載された内容を記載する事としました。

福音教会の歴史と神学 2007年 1月7日
アメリカ福音教会の歴史 2007年 1月14日〜2007年10月 7日
日本福音教会の歴史 2007年10月14日〜2008年10月12日
須賀川教会の歴史 2008年10月26日〜


                                 福音教会の歴史と神学

2007年1月7日

福音教会の歴史と神学(1-1)

 アンダーソン宣教師はアメリカ福音教会から派遣された婦人宣教師であった。アンダーソン宣教師の信仰と歩みをたどるなら、母体(ボード)であるアメリカ福音教会と日本福音教会の歴史と神学を知ることが必然と言える。ただ、アメリカも日本の福音教会も現存しない。アメリカ福音教会は1803年に創設されてから150年の歴史を刻んで同胞教会との合同により福音教会独自の歴史は終わっている。同様に日本福音教会も1879年に東京に創設されてから62年の歩みを経て戦争に向かう国策による宗教団体統制のために日本基督教団に半ば強制的に統合された。
 現在まとまった形でその両方の歴史が残されているのは、『東金教会百年のあゆみ 附アメリカ福音教会略史・日本福音教会略史』東金教会牧師中村征一郎牧師の労作である。ここでは中村氏の許可を得て、重要な部分や関連する記事を拾い転載する。


                                           TOPへもどる


                                 アメリカ福音教会の歴史


 
2007年1月14日

アメリカ福音教会の歴史(1−2)
 創設者ジェイコブ・オルブライト
 1759年福音教会創設者ジェイコブ・オルブライトがペンシバニア州モントゴメリー郡にドイツ系移民のアメリカ人として生まれる。
 1790年31歳の時に回心を経験する。所属も信仰理解もメソジスト教会であったが創設者の例にもれず、その枠に微妙におさまらず、信徒である「彼の伝道に対する熱意(それは時として狂信者とレッテルをはられるくらいであった)に打たれ、引き付けられた者達が後年福音教会形成へと導かれていったのである。」(p35)。
 1803年「福音教会の歴史はこの会議をもって一つの転換点をなす。今までのオルブライトの‐そして同労者の‐働きは私的な敬度主義的運動という側面が強かった。しかし1803年の会議を契機として、単なる私的な運動からより公的な、後年における杜会的に認知された福音教会への萌芽が見られるようになる」(p40)。伝道方法はメソジストにならい巡回伝道方式で一定の伝道地域を持ち何週間かで巡回するもの。
 「福音教会の神学的特徴は何かと問われたらそれは『成全』の強調であると言いうる程福音教会の歴史を貫いて主張されつづけた教理であった」。「オルブライトによる『成全』の理解は如何なるものであったか。福音教会史家によるとそれはきわめてオーソドックスなものであったらしい。彼は言う『神の恵みにより回心した者は聖化せられる。それは心の底から清く聖にせられる経験であり、この聖化は回心の時瞬時に起こると共に、それは継続的に成長し、キリストにある新しい者へと時々刻々変えられてゆくのである』と。」(P45)。
 1808年オルブライト召天(50歳)。

 1810年以降福音教会は都会のインテリ層の教派でなく、また際だつ神学をもつ教派でもなく、また際だつ神学をもつ教派でもなく、農民や貧しいドイツ移民系をメンバーとする素朴な信仰者の群れであり地方教会(Rural church)であった。{この時期の教派の状況として「財政的に厳しく」「人的・神学的組織として未発達」「きわめて禁欲的な雰囲気をもっている」等の言葉に表現されている。
 1840年福音教会の宣教は徐々に拡大し、アンダーソン宣教師が生まれるイリノイ州でも宣教が開始される。


2007年1月21日

アメリカ福音教会の歴史(1‐3)
 1808年5月18日、福音教会創設者オルブライトが召天。オルブライトは、自らの召天に際し、後継者の監督を指名しなかった。1838年にジョン・シーバートが第二代監督に選任されるまで30年間不在が続いたが、複数の長老によって群れは守られた。
 本来なら組織としては、早急に総会を開きオルブライトの後継者監督を選任すべきであったろうが、まだ萌芽期のゆるやかな同志的集団を抜けきらず、福音会としての自覚と主体性は確立されておらず、監督選任の必要性がなかったとも言える。指導体制で彼の死後に群れを引き継ぐべく期待された者が数名あったが、相次いで病気で一線を離れなければならなかったことも一因であった。30年間を支えたのは、オルブライト最晩年の弟子である若きドライスバッハであった。
彼は若いということもあるが、派生したメソジスト教会との差異をはっきりとすることができず、福音教会なりの教会制度を模索していた時期と言える。
 また、牧師個人の否応を問わずに、監督の指示によって任地に着任しなければならないほどの強い権限をもつ監督が、メソジスト教会よりも自由な雰囲気を望んで群れを形成した福晋教会にはなじまない面もあったのだろう。
 毎年、年会と呼ばれる全体報告会を開き、議長であるドライスバッハが年四回ほど、各教会を巡回する関係であった。
 1816年は福音教会にとって特筆すべき年で、第1回目の正式な教会会議である総会が開催され、出版事業が新たに開始された。この総会を福音教会の創立と考える人もいる。


2007年1月28日

アメリカ福音教会の歴史(1−4)
 創設者オルブライトの召天から1816年第1回総会開催まで、福音教会の群れを約20年守ったのはドライスバッハであることは先週の内容。今回は、当時の福音教会(この時点では「オルブライトの群れ」と呼ばれている)の様子に触れたい。
 当時の福音教会の伝道対象者は、ドイツからの移民でドイツ語を話す限られた人々であった。伝道者も神学校卒業者ではなく、熱心な信徒であった。
 当時のエピソードとして、ドライスバッハにメソジストの監督アズベリーがメソジスト教会に転入するように勧めた逸話がある。これに対してドライスバッハは「自分だけ一人オルブライトの群れからぬけでることは不可能なこと、しかしもしメソジスト教会が彼の群れにアメリカにあるドイツ人伝道を任せてくれるならメソジストとの合同を真剣に考慮することを伝えた」(P49)。しかしこのドライスハヅハの提案にアズベリーは即座に「それは適当でない」と断ったとある。この会話からも知られることは、ドライスバッハも福音教会としての確固とした独自の教派形成の展望を持っていなかったことやメソジスト監督が即座に断った理由を著者中村征一郎牧師は「平信徒伝道者にすぎない福音教会の伝道者を教職として受け入れることへの躊躇があったのではないだろうか」と推測している。
 1810年の教勢は、巡回伝道者は7名、メンバーは528名であるが、1915年には飛躍成長し、7布教地メンバー1,000人を数えている。
 オルブライトの後を受け継ぎ、奮闘努力した長老司ドライスバッハは、1871年8月に82歳で召天している。


2007年2月4日

アメリカ福音教会の歴史(1−5)
 1816年は福音教会にとって特筆すべき年で、第1回目の正式な教会会議である総会が開催された。この総会を福音教会の創立と考える人もいる。
 福音教会の創立年を1800年にオルブライトが同志的集まりを最初に行った年か、同志の会議を行った1803年とするか、この総会開催年とするかは難しい。
 総会はペンシルバニアで議長であるドライスバッハの納屋で6月11日から13日に行われた。16名の巡回教職、執事、長老によるもので、決議された重要案件は、@信徒の移住により、はじめてペンシルバニア州を越える伝道の開始Aこれまでは教職は巡回伝道師だけであったが、定住伝道師を認めたB出版事業の開始であつた。
 1810年から1816年ごろまでの福音教会の間題や雰囲気をまとめるなら以下のようになる(55頁参照)。
@農村教会であるために教会が貧しく、特に教職の謝儀が低かった。妻帯する者は牧師を続けることが出来ず辞めてしまう為に教職不足なうえに、未熟な若い独身の教職が多く安定に欠けた。
A伝遺に熱心であるが、後においてもそうであるが禁欲的な雰囲気も強かった。あまりにも高い倫理を求めたために解任される教職が多く、慢性的教師と献身者不足を招いた。
B他教派の無理解による迫害の中での成長であった。
 1816年以降も忍耐が続くが教勢はわずかずつ進展していた。が、その教勢も1820年以降は停滞した。キリスト教の不思議さでもあるが、その停滞を打ち破るリバイバルが1823年に起こった。

2007年2月11日

福音教会の歴史(1‐6)
 前回の週報記述のごとく、1816年から1823年まで福音教会の伝道停滞は続いた。この忍耐期を打破する出来事、リバイバル(信仰覚醒運動)が23年に起こり39年頃まで続いた。それは突然にオルウィグバーグという田舎町で起こった。オルウィグバーグは以前から何度か伝道されていたが、改革派とルター派で占められ、福音教会にとっては石地であつた。23年6月、巡回伝道師ジョン・シーバードが巡回し、ある学校を借りて礼拝する予定であったが、いざ行ってみると学校の門は閉まっていた。そこにウイルソンという一人の黒人と仲間数人が集まり、しかたなくウイルソンの小さな納屋で礼拝が行われた。シーバートはヨハネ1:11「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」をテキストに説教し、集まった人々は大いに威動した。これがリバイバルの点火となり、続けての集会がもたれ、またたく間に40名の回心者を出した。この出来事がビックニュースとなり福音教会を活気付け、伝道圏を拡大させ、ついにアンダーソン宣教師の故郷イリノイまで伝道圏が届いたのであった。
ただ、この勢いを福音教会は教会形成に着実に結びつけることが出来なかった。日本でも戦後にキリスト教ブームが起こったが、同様に教会として組織的に受け止め根付かせる力が不足していた為一過性の盛り上がりとなってしまった。


2007年2月18日

アメリカ福音教会の歴史(1−7)
 1823年のリバイバル以後について。
 リバイバル以後、伝道圏(東年会と西年会)も信徒数も微増する。体制としては巡回教師約20名、信徒数2,500〜2,800名の小規模地方教会(Rural Church)であつた。
 組織図としては以下。
教職制度 教  区 会       議
監  督 教区 総会(不定期:重要事項時開催)
長老司 年会区(東・西)  年会(年1回定期)
長  老 伝道区 伝道区会
巡回職 布教区 布教区会
定住職 組会 

 1830年の総会は福音教会の将来の方向を決める二つの重要な決議を行った。
 アメリカ型民主主義による組織運営と教会で英語の使用を一部認める決定がなされたことである。
 発端は、若い伝道者グループがある程度の組織形成がなされ、教義や礼拝の仕方が定型化し、会議が組織的になされるようになったことに反発し、創設者オルブライトの昔に戻ることを主張した。個人の単純で純粋な信仰こそ、福音教会の本義であるとの主張が強い力を持つようになった。
 また、これまでの福音教会で自覚していた使命は、「アメリカに移住したドイツ人にメソジストの伝道を行う」ことで、教会内や説教ではドイツ語使用だけを認めていた。ところが若い伝道者グループは、日常では英語を使用する者も多く、英語で説教することを求めた。
 総会では時代の変化を受け入れると共に若者たちの暴走を危慎し、その結果、長老たちの同志的結合による上意下達型からアメリカ民主主義型に、また「教会内ではドイツ語を公式としつつ一部英語の使用も認める」という決断を行った。

2007年2月25日

アメリカ福音教会の歴史(1−8)
 1835年の総会は、後年の新機軸となる重要な決議を行った。@日曜学校創設推進の決議がなされ、全教会に広まって行った。A慈善活動行う組織を創設。この組織は、教会に献金されたものを用いて、隠退教職とその家族、教会の未亡人、孤児たちのために活動された。B教会機関誌の創設。この機関誌は廃刊となる1947年までの110年間に渡り、福音教会の主要刊行物として福音教会の精神を伝え、伝道を鼓舞し、論戦を戦わせた。
 1839年以降から1860年までの21年間を福音教会の確立期と呼ぶことができる。オルブライト初代監督から31年の空白を経て、第二代監督として福音教会をリードしたのは、ジョン・シーバートであった。監督に選任された時、彼は48歳であった。彼は召される1860年までの21年間この職に留まった。この時期に福音教会は教派としてそれなりの位置をアメリカ・プロテスタント諸教会の中に持ち、組織も整い、伝道地域も広がり、信者数も数万人を数えるになった。
 彼のひととなりを福音教会略史は次のように記してある。「謙遜であり、己に厳しく、弱い者達には同情が厚く、福音伝道においては溢れる気概を持ち、未来を見通す確かな目をもっていた。反面不正や怠慢、不節制といったものには厳しく、時においては禁欲的に過ぎることもないではなかった。」(P82)。
生涯独身で、福音教会に捧げた生涯であった。


2007年3月18日

アメリカ福音教会の歴史(1−9)
 1840年から1850年の10年間は、会員と教会の増加、神学教育の着手等飛躍の10年であった。
 反面、新たな課題も浮上してきている。一つは、東部と西部の対立である。日本人の私たちにはわかりづらい所であるが、地域も数も拡大したために東部のアメリカ的自由を尊重する気風と西部の開拓精神的気風がことある毎に会議等で衝突したとある。また、この時期から教会の伝道気質も良くも悪しくも伝道的あるより教会形成的になってきた。元々、福音教会の特質は、その激しい伝道にあったが、そうしたがむしゃらで独りよがりな伝道する雰囲気を容認しない時代となったとも言える。


2007年4月15日

アメリカ福音教会の歴史(1−10)
 1851年から1860年の10年間は、1940年代に続いて堅実な発展を遂げた時期であった.と同時に1970年代の教会分裂の影が忍び寄った時代でもあった。
各年会区の意識の違い、ドイツ語を目常語とする古い世代の者達と英語を使う新しい世代の対立、その他会員数の拡大に伴う様々な不一致があらわれたが、それらは全体の発展基調の陰でくすぶった。
 1851年、福音教会としてはじめての海外伝道がドイツで行われた年であった。このドイツ伝道は後年大きな実りとなり、その働きはスイス、フランスまでにおよんだ。
 また教会創立50年周年を記念して「オルブライト・セミナリー」(教育施設:ハイスクール)が創設された。後年、伝道と共に教育に熱心にとり組む福音教会の特徴のはじまりでもあった。
 1960年21年間にわたり監督を務めたジョン・シーバートが召天する。素朴な信仰者の群れから一つの教派(9つの年会区、巡回伝道師320名、定住伝道師268名、会員4万人)となるまでに導いたのは、馬上の監督とも呼ばれた彼の燃える伝道者スピリットであった。


2007年4月22日

アメリカ福音教会の歴史(1−11)
 1861年から1887年までを福音教会の歴史をまとめた本には「危機の時代」との題がつけられている。福音教会分裂という事態が引き起こされたのだった。表層的には伝道圏が太平洋まで伸び、会員数も4万人から14万人まで飛躍的に伸長し、日本伝道という大きな事業にも取り組んだ年代であったが、その人的・地域的拡大が対立の溝を深くしたとも言える。主因は聖化についての神学的対立と各年会区の不一敦であったが、日本伝道に対する評価の食い違いも一つの原因となった。
 そもそも福音教会は伝道に熱心な教会であったので異教国伝道への関心は1853年後頃からあり、具体的には60年頃に中央アフリカかインドの2侯補地に絞られて、最終的にはインドと決定したが、南北戦争のために中断された。時を経て1874年に再び異教国伝道の気運が盛り上がり、開国まもない日本が伝道対象国として選ばれた。
 日本の開国がアメリカ(ペリー)の力によったこと(1854年)や独自の文化を持ちながらもキリスト教文化を受け入れる素地があること知られ、アメリカ・キリスト教界では日本伝道がちょっとしたブームともなった。1859年日米修好通商条約締結とほぼ同時に監督派・長老派・改革派の宣教師たちが上陸している。当然彼らからの報告も聞き、日本に大きな可能性と魅力を感じたのであった。先発組ではないにしても福音教会が日本伝道の端緒となったのは1974年の決議によった。


2007年4月29日

歴史コラム(1)
 敗戦後の混乱の中で、海外ミッションの素早い物心両面の援助が日本の教会を支えた。特に北米8大教派(アメリカ福音教会は含まれず)は、宣教師を派遣するだけでなく、当初個別にバラバラであった資金援助を一本化するために1947年にIBC(ミッションボード連合委員会)を設立し、その具体的働きを担う機関としてCoC(内外協力会)を設置した。1950年の統計では教会堂復興の半額自己負担を条件にIBCの寄付援助を受けて再建された教会は150教会を数えている。
 復興が一段落した1960年頃より、教団内では北米教派の流れを汲む旧教派を越えて、日本基督教団としての主体性と自立が強く意識されはじめ、IBCからの援助依存体質を脱却して経済的自立をもとめる気運が起こった。そのために援助から協力の体制と変えるためにIBCとCoCを改組してJNAC(日北米宣教協力会)が1973年に発足した。
1988年にはCoCを更に改組して(宣教協力会)と名称と役割を変更した。
 2005年1月、ついにJNACは解散され、IBC以来、60年敗戦後の日本の教会を支えた働きを終了した。
 2007年4月28日発行の「教団新報」に「日北米宣教フォーラム」が開催された。このフォーラムがJNACの意志を今後に継承していくとのことであった。


2007年5月6日

アメリカ福音教会の歴史(1−12)
 福音教会の日本伝道は1874年の年会議より決議され、翌年75年の総会において改めて決議され、その感動を福音教会史家のエラーは次ぎのように記録している。「1875年10月19日、総会はフィラデルフィア四番教会で持たれた。そこでは非キリスト教国に伝道地を確立すべきであるという提案に対し熱心に活発な論議が展開された。そしてその日の午後より日暮に至るまで一層の論議がなされ、遂にC・F・ダイニンガーが立ち上がり、この問題に関しては神の導きに全く委ねるべきことを提案した。しばしの黙祷により神の前に荒れたる心を静め、エッシャー監督が心をこめて祈りをなした後全員が立ち上がり、賛美を共に和した。それは4時10分過ぎであった。そしてこの賛美と共に伝道への熱き思いは燃えさかり一同は涙と共に一致して日本伝道を推進すべく決断したのであった」(126頁)。
 ペンシルバニアの片隅から弧々の声をあげた福音教会が、80年の時を経て、遠い異教の地に伝道を開始するまでに至り、その労を担った者たちには感無量なものがあったにちがいない。
 翌年、総会決議に基づいて3人の宣教師が日本伝道の任命を受けた。ハーンフーバー(巡回伝道師:豊かな言語の才能をもち日本語もできた)、ミス・ラケル・ハドソン(公立学校の教師)、フレデリックC・クレヅカー(医師)であった。一度の3名の宣教師を派遣することは当時の福音教会の財政からして並々ならぬ負担であった。また、教師と医師を派遣したことは、日本伝道の方針は、直接の福音伝道だけではなく、教育と医療の地域貢献の働きVを手がかりにするものであった。希望に満ちてはじまって日本伝遺であったが、不幸な結果が待っていた。


2007年5月13日

アメリカ福音教会の歴史(1−13)
 1867年11月13目宣教師3人は横浜に到着し、日本杜会の学びと日本語修得にしばらくの時を過ごした。翌年、医師のクレッカーは東京での医療活動に従事し』クレッカー夫人はバイブルクラスを開催した。女性宣教師ハドソンも東京でディ・スクール活動をはじめた。ハーンフーバーは大阪に働きの拠点をおいた。かくて小さいながらも1879年に最初の組会が東京に組織された。そこに1880年、ジェイコブ・ハツラーが日本伝道責任者として着任し活動をはじめた。
彼の報告によれば、9ヶ所の説教所と26名の会員と150名の日曜学校生徒が集まっているとの好調なスタートであった。
 ところが、1882年にハーンフーバーが病気となり大阪の拠点、10数名の会員と建物を閉じて帰米することになった。翌83年には医師のクレッカーが日本人患者の腸チブスに罹患したのが原因で召天する。84年にはミス・ハドソンも病気で帰米せざるを得なくなった。かくて1876年に来日した福音教会最初の宣教師3名はいなくなってしまった。ハツラーはアメリカのミッション・ボードに宣教師の補充を願ったが実現されなかった。
 1885年の総会報告では112名もの会員が失われたと報告された。内訳は召天者6名、除名者26名、退会者70名。一方、加入者は12名であった。
この多数の除名者・退会者数はボードを失望させた。84年に福音教会監督としてはじめてエッシャー監督が来日視察を行ったが、費用程の結果に結びつかない状況に失望して帰国し、日本責任者ハツラーの指導能カ不足を批判したのだった。
 日本人が一時の高揚で簡単に洗礼を受けるが、しばらくすると熱が冷めて教会に来なくなってしまう特性を監督はなかなか理解できなかった。特に感情的高揚にまかせてリバイバル運動的に伝道を行った福音教会では、特にこの歩止まりが悪いのは当然であった。また、ハツラーも既に長老派・改革派などの先発の宣教師達が信徒教育や教育・福祉施設を通じての伝道にシフトしている伝道方法を改めなかったことや他教派宣教師との関係悪化の問題もあったらしい。
 このエッシャー監督と日本責任者ハツラーとの対立が、やがて福音教会の分裂までの一原因に行き着いてしまうのであった。


2007年5月20日

アメリカ福音教会の歴史(1−14)
 1876年から1883年までを概観するに二つの特記すべき事柄がある。ひとつは76年に福音教会最初の神学校が創設されたこと。いまだ地方の農村教会の雰囲気が残っていた教会には、なまじの神学教育は信仰をダメにする。大切なのは勉強よりも祈りと伝道の情熱であるとの反対意見も強かったが、都市部での伝道が盛んに行われ、深い神学的素養が要求される時代となったのであった。
 二つ目は、1877年に婦人伝道会設立の企てがなされ、83年の総会でようやく承認されたことである。この婦人伝道会こそが日本伝道を祈りと資金援助で支えた会であり、この婦人伝道会の活動の中で、やがてアンダーソン宣教師が日本に送られ、教会・幼稚園建設の際に資金援助がなされた母体であった。この会の発起人は奇しくも最初に日本に派遣され病気で帰国せざるを得なかったミス・ハドソンであった。帰米しても彼女は日本のために祈り続け、フィラデルフィア・インマヌエル教会で初めて組織した。日本に最初に来て日本で召天したクレッカー医師の夫人もその教会のメンバーであったと推察されている。
 アメリカの教会において婦人たちが教会で活躍するのが1900年代からであり、婦人の教会活動は伝統的価値観に縛られた男性教職からの反対が強く、彼女らの活動は偏見と無理解に悩まされた。それでも粘り強く、外国伝道のために特に日本伝道のためにとバザーや献金の呼びかけ・奉仕を行ったのはこの婦人伝道会であった。


2007年6月10日

アメリカ福音教会の歴史(1−15)
プロテスタント宣教黎明期年表
1853年(嘉永6) アメリカのペリー、艦隊を率いて浦賀に入港。
1857年(安政4) アメリカ総領事ハリスが江戸城に登城し将軍に謁見。ハリスは住居で主日礼拝を行う。
1858年(安政5) 居留地内での信教の自由が承認される。ウィリアムズ、サイル、ウッドら、日本開国の情報を得て、長崎からアメリカ本国の各伝道局に宣教師派遣を要請。
1859年(安政6) 通商条約を5カ国と締結。長崎・横浜・函館での自由貿易を許可。アメリカ聖公会のリギンズ、ウィ.リアムズ、アメリカ長老派教会のヘボン、アメリカ・オランダ改革派教会のブラウン、シモンズ、フルベッキら日本に到着。宣教師の滞在は許可されるが、日本人への伝道は禁止。
1865年(慶応元) 矢野元隆、J,H、バラより洗礼を受ける。プロテスタントでの日本人はじめての受洗者。
1867年(慶応3) 浦上の隠れキリスタン捕縛される(浦上四番崩れ)。
1868年(明治元) 徳川慶喜が将軍に。大政奉還される。キリスタン禁制の高札を永年掲示とする。
1872年(明治5) 横浜のバラ宣教師から聖書を学んだ9人の青年が中心となり日本基督公会(プロテスタント)設立。
1873年(明治6) キリスタン禁制高札撤去。


2007年7月1日

アメリカ福音教会の歴史(1−16)
 1885年1月から2月にかけての約5週間、福音教会のエッシャー監督が日本の伝道視察に来訪した。当時ワシントンフロリダの伝道で多くの実りをあげていた福音教会は、日本においても伝道の実りを期待しての来訪であったが、現実はエッシャー監督を深く失望させた。彼はあまりにも早い実りを日本に期待したからであった。後年日本福音協会総理を長く勤めたP・S・メーヤー宣教師は、初期における福音教会の実りが少なかった原因として幾つかの要因をあげている。
1.クレッカー、ハーンフーバーの最初期の優秀な宣教師が不幸な病気と病死により中断されたこと。
2.日本責任者ハツラー宣教師の後任者派遣要請にもかかわらずミッション・ボードは人的、財的援助を送らなかったこと(ハツラーとエッシャーとの対立)
3.福音教会らしい情熱的伝道方式を行い、安易に洗礼を授けたことにより報告人数がふくらみ、ボードの期待が大きすぎた。
 つまり教会員数と実際に献身的に継続して教会を支える人数(アクティブ・メンバー)にあまりに差が有りすぎた。このギャップは日本人のキリスト教に対する理解不足(キリスト教の福音自体を求めたのではなく、英語の求めやキリスト教文化、経済への憧憬であったが、長く鎖国であったことや長年キリスト教を邪教扱いした国策による影響でもあり、日本人特有のメンタリィであるように思える)でもあった。


2007年9月2日

アメリカ福音教会の歴史(1−17)
 1887年当時、福音教会のメンバーは14万人あまりであった(ちなみに教団の現在現住陪餐信徒数は10万人)。しばらくくすぶっていた不和分裂がこの年の総会で表面化した。分裂の原因には種々なるものが絡み合っていた。@先発年会区と後発年会区の地域的セクショナリズムAドイツ語圏の流れを汲む伝統派と英語圏の振興主流派の対立B主体性尊重の緩やかな組織論と強力な監督権による中央集権組織論の対立C3人の監督同士の不一致などが原因として挙げられている。
 1921年までの34年間、福音教会は二つが存在し、エバンジェリカル・アソシエーション(信徒11万人)とユナイテッドエバンゼリカル(信徒4万人)で、両教会総会が開催された。二つの総会は、それぞれが、自らが福音会正統派と称し、お互いに問安使を送ったが、一端もつれた糸の修復までには34年の時間が必要であった。


2007年9月9日

アメリカ福音教会の歴史(1−18)
 1887年の福音教会分裂で、日本伝道が関係した派はエバンゼリカル・アソシエーションであった。1891年の分裂後初の教会総会で日本伝道総理のフェゲラインがこの総会に出席し、宣教師・牧師合わせて19名、信徒数445名と報告し、日本伝道区としての認可を得たとある。人間的感情のもつれや監督の強権に対する反発といった人間の罪から二つに分裂した福音教会のその後は、憎悪と不信感の対立となった。教会で愛が語られた分だけ、虚しく惨めな分裂であつた。
 各地の教会で牧師と信徒の不一致が起こり、教会が牧師を追い出したり、逆に牧師が信徒を追い出したりと、悲惨な教会を去る者もいた。ここまでこじれると教会財産の帰属にからみ、いずれが福音教会の正当な後継者であるかが裁判所で争われた。勝訴したのは多数派のエバンジェリカル・アソシエーション(E・A)であった。少数派は名称を変え、ザ・ユナイテッド・エバンゼリカル・チャーチ(U・E)と称し、新信仰告白を制定して自立した。


2007年9月16日

アメリカ福音教会の歴史(1−19)
 1888年から1921年までの35年間、福音教会は二つの教会に分裂して活動を行った。
多数派のエバンジェリカル・アソシエーション(E・A)と少数派ザ・ユナイテッド・エバンゼリカル・チャーチ(U・E)と称したが、信仰告白はほぼ同様な内容でも一緒に活動できなかった。大きな所では一致していても、小さな差異が許容できない、キリスト教の悪いところが浮かびあがる。
ここでは、この二つの教会の差違について記す。
@監督の在職期間
E・Aは従来の福音教会主流を引き継ぎ、中央集権的教派体制を取り、監督在任の制限は設けなかった。一方U・Eは、民主的教派体制となり、監督の在職期限を2期8年と限定した。
A信徒の教派運営の参加
 E・Aは教職主導で行われ、U・Eは総会議員の半数を信徒議員として教職と同等の資格を保証した。
B各教会の財産の帰属
 E・Aは教会財産を教派所有とし、U・Eは各教会の財産所属を認めた。
これら分裂の背景には、従来の伝統を大切にする派と急速に影響力を及ぼすアメリカン・デモクラシーが濃厚に反映している。


2007年9月23日

アメリカ福音教会の歴史(1−20)
 神の計画は不思議なもの。迫害を恐れて逃れた信徒が異邦人伝道の中心になったように、福音教会分裂期の危機時代に、これまで以上に海外伝道が盛んになるのであった。これは35年間に及ぶ分裂期の唯一の恵みと言っても良いかもしれない。
既に記したように福音教会では1860年からインドヘの海外宣教が進められ、これは南北戦争で計画半ばで中止となったが、その後の日本伝道へのステップとなった。福音教会の海外伝道の中心となった日本伝道は、多数派のE・A側についたため、分裂でさして影響は受けなかった。
 一方、対抗意識からU・Eはマラヤ伝道、ポーランド伝道、キューバ伝道、ブラジル伝道、ヨーロッパ伝道を盛んに行い、中でも中国伝道とアフリカ伝道に多くの実りをみた。
E・A側もまた競うように継続して日本をはじめ海外伝道に力を入れたことは、日本伝道にとってこの分裂は幸いであったのかもしれない。


2007年9月30日

アメリカ福音教会の歴史(1−21)
 1888年〜1921年の35年に及ぶ福音教会分裂がどのような契機で再合同になったかを記す。直接的にはきわめて人間的というか、教団紛争の当事者となった多くの人たちが召されたことであった。」彼らは福音教会の成長に多大な貢献者であったが、同時に分裂の当事者であり、光が強かった分、影も強かったと言える。元々、両派は神学的相違があった訳ではなく、和解も当事者の召天後に急速に進展した。
 第1次世界大戦を挟んだゆれの大きな時期、アメリカ・プロテスタント教会の多くが同様に分裂した。そのほとんどは分裂したまま新たな教派をつくったが、30数年を経て和解した「福音教会」はアメリカ教会史上では稀有のことであった。分裂は歴史的事実で、原因も人間の罪によるものであったかもしれないが、和解の道が開かれたことは、福音教会の持つ生きた信仰があったとも評価できるのではないか。
 かくて1922年10月、少数派であったU・Eでは合同に最後まで反対する群れも一部あったが、両教派は合同に調印し、「福音教会」(The Evangelical Church)が再誕生し、教会数2,916教会、教師数2,431人、会員総数259,417人を数得た。


2007年10月7日

アメリカ福音教会の歴史(1−22)

 前回までは、福音教会の分裂とその再統合を記した。1920年代以降の福音教会は時代的状況に揺り動かされた思想的側面としては、進化論や歴史批評的解釈、経済的側面としては第1次大戦後の大恐慌による膨大な赤字であった。再統合の傷を引きずりながらも、福音教会は分裂以前とほぼ同様な形を取り戻したのであった。
 ジュイコブ・オルブライトから始められた福音教会の歩みも150年が経過したが、そうした時代の波により今度は新たに同胞教会との合同により、福音教会独自の歴史もとうとう終止することになる。
もっともアメリカにおいては、教派合同運動はかなり活発に行われ、その意味では日本的感傷はあまりあたらないのかもしれない。
同胞教会は、1926年に合同の申し入れを行い、静かに継続して信仰内容・教会政治・職制など難しい問題を討議され、1942年10月合同の大綱が議決された。
同胞教会は福音教会にとって未知の教派というよりは、総会で相互に問安をし合う親しい仲であった。合同の理由は、議案によれば「合同は霊的力の導きによるものであり,…….経済的にも望ましい効果をもたらし……教会的生命を新たなものにし……影響力も拡大され……より大なる資力により経済的な基盤も整備される」というアメリカ合理的な表現が目立つ。かくて福音同胞教会成立を見たのであった。
教会数4,702、信徒7万人。教会合同には珍しく1教会の離脱教会もない完全な合同であった。以後、福音同胞教会が今度は1968年のメソジスト教会との合同にいたるのであった。
これでアメリカ福音教会の歴史概観は終了する。



TOPへもどる


もどる
inserted by FC2 system