牧師東西南北
日本福音教会の歴史

2007年は須賀川教会の出発点である福音教会の歴史について、
週報の牧師東西南北に連載された内容を記載する事としました。

福音教会の歴史と神学 2007年1月7日
アメリカ福音教会の歴史 2007年1月14日〜2007年10月7日
日本福音教会の歴史 2007年10月14日〜2008年10月12日
須賀川教会の歴史 2008年10月26日〜




日本福音教会の歴史

2007年10月14日

日本福音教会の歴史(2−1)

  日本福音教会の歴史(2−1)
日本福音教会の略史を今回より記述する。
年代としては1876年(明治9年)から1942年(昭和17年)の66年間の歴史となる。

 最初にアメリカ福音教会が外国伝道始める契機は、福音教会創立50年記念事業であった。記念事業として4つのプログラムが開始された。
 @50年記念礼拝
 A創設者オルブライト記念教会の創設
 B学校教育施設の設立
 C外国伝道

 この時の外国伝道の対象国は、オルブライトとメンバーの祖国ドイツにメソジストの福音を伝える内容であった。この外国伝道が軌道に乗ると、新たな伝導対象は異教国となった。1800年代のアメリカ・キリスト教界は異教国伝道が盛んに行われ、福音教会は他教派と比べ出遅れていた。
 1963年の総会では、伝道対象国としてインドが決議され、具体的に計画が進められたが、南北戦争の激化により中断せざるを得なかった。

 1874年の総会は、対象国を日本とした。当時ペリー来航(1853年)以来、アメリカでは日本への関心が高まっていたことも影響しているかもしれない。
 早速、第一陣の派遣教師として3名が決定した。
 責任者は、F・フレッカー。彼の父は福音教会の牧師であったが、若いころは反発し医師となったが、次第に伝道者としての自覚に芽生え、伝道者となり、更に日本への召命を強く覚えたのであった。A・ハーンフーバーは、ドイツの工芸学校の校長兼教授であったが、牧師としての召命を覚え伝道者隣、更に日本宣教への召命を強くした。ミス・ハドソンは、師範学校卒業後に学校教師となり、教会学校に献身的に仕え、彼女も強く日本伝道への召命を強く感じての志願であった。

 福音教会を含め、当時日本に送られて来た宣教師は、いずれも日本への熱い召命と優秀な人材であり篤い信仰者であった。


2007年10月14日

 日本福音教会の歴史(2−2)

 日本宣教の第1陣として任命を受けた三名は、福音伝道を専らとするだけではなく医療、教育の働きが当初から期待されていた。異教国日本にキリスト教が根付く為にと周到に計画された。福音伝道と地域奉仕である医療・教育を両輪とする方策は、聖書のキリストに学ぶ働きでもあった。

 1876年10月1日クリーブランドで盛大な歓送礼拝が行われ、10月18日、英国の汽船オーシアニック号でサンフランシスコより日本に船出したのだった。
 23日間の公開を終え、11月13日(明治9)横浜に到着した。出迎えたのはメソジスト教会宣教師J・コレルであった。クレッカー一行は1週間ほど海岸通りにあるグランド・ホテルに滞在し、その後山手にある小さな家を借り、そこで約1年間を過ごす。

 日本語を習得しながら日本の生活習慣を学ぶ日々であった。彼らはそれらの報告をアメリカ本土の本部に行った文には近代化の並みの早さや町の清潔さに驚かされたと記している。

 当時、外国人の居留地は横浜か東京築地と決められていたが、この外国人居留地から出て、伝道の拠点を他にもとめることが先決であった。彼らは、学校の教授だけに例外的に許されていた外国人居住地外に住む事例を上手に用い、私立学校を設立する計画を立て1877年6月8日(明治10年)神田に住む許可を得たのだった。


2007年10月28日

 日本福音教会の歴史(2−3)

 日本に到着して8ヶ月、駿河台の愛隣私塾に宣教の拠点をもった。そこでは夜にクレッカーが英語を教える塾で、開校時の入学者は1名であつたが、2ケ月ほどで20名となった。

 クレッカー夫妻の居宅は美土代町に設けられ(後に福音教会最初の教会)、毎朝家庭礼拝が持たれ、伝道はこの家庭礼拝を中心とした。毎朝もたれる礼拝に加わる群れは次第に増え、この礼拝が人々を育んだ。クレッカーは「9月10日には30人の人々が集まった。
 午後の日曜学校には23人来た。その中には朝の集会に出席した一人の巡査もいた」と報告している。クレッカー家のクリスマスには35人集まったこともあり、婦人の料理目当ての人もいたようである。

 1877年(明治10年)8月5日の聖日に日本ではじめての洗礼式が行われた。洗礼受領者は堀内近道。彼は英語を理解しなかったが、横浜到着時から世話をして共に過ごした人物であった。ただし、程なく彼は教会から離れてしまう。

 この年、ハーンフーバーは語学の才能をかわれ、まだ横浜に滞在し、福音教会の信仰問答書の翻訳作業に従事している。彼は9月に大阪に向かい居留地に近い下宿屋(川口町)に居を定め、クレッカーと同様に毎朝の家庭礼拝から伝道がはじめられた。12月、米国から彼の妻となるカエッケルが来日した。

 「日本福音教会」と命名されたのはこの年で、クレッカーは友人のフルベッキ、ソパール、ハリス、ヘボン、バラの諸子と会談し決定された。
 尚、1878年の統計では日本の宣教師数は100名ほど、信徒数は1,617名であった。

2007年11月4日

日本福音教会の歴史(2−4)

 クレッカーは毎日のように礼拝や祈祷会を行った。そんな中、大きな喜びのうちに2月に10名の洗礼式(2回目)を行った。多忙に加え、生活環境の変化もあり、クレッカー夫妻は眼病を患った。それが癒されると9月にはクレッカーが神経衰弱にかかった。慣れぬ地でのまじめな伝道活動の心労と最初の宣教師団の責任者としての重圧が彼の神経を弱らせた。1879年(明治12)、クレッカーは周りのすすめもあり、療養を兼ねた国内旅行を行った。

 一方、大阪に赴任した新婚のハーンフーバーは、突然コレラに似た病気になった。療養の必要もあり大阪の活動は一時中断した。快癒後、最初の日曜学校が開校され、次第に人数も増えていき洗礼式も行われた。

 1880年5月、日本福音教会初代総理としてジェウコブ・ハツラー夫妻が来日した。東京と大阪を訪問した夫妻は、異教の地での孤軍奮闘が彼らの疲労が限界に達しているために、米国の本部にさらなる宣教師派遣を願った。
ミッション・ボードはこの要望に応えられずに、大阪をやむなく一時撒退することにした。


2007年11月11日

日本福音教会の歴史(2−5)

 1882年4月26日、クレッカー宣教師が39歳の若さで突然召された。医師でもあったクレッカーは、小田原町の貧民街に出かけ医癒活動を行っていた。そんな折り、腸チフスが流行り、路傍伝道を通じてクリスチャンとなった若者がチフスにかかり、お金がなく満足な治療を受けられないためにクレッカーの自宅付近に越させ治療を続け、彼の治療を通じてクレッカー本人が感染してしまった。

 クレッカーは意識を失う前にこんなことを述べたとハツラー総督は報告している。
夫人には「私の病はただことではないと思います。私はまもなく意識を失うでしょう。私の事は何も心配することはない。不安も恐れもなく、心は全く平静だよ」と。
 ハツラー等には「愛する魂を訪れ、看取りつつある間に、遂に私も感染したのであるが、私はあんな所にゆかなければ良かったとか、どうしてこんな所に足を踏み込んだのだと言う様な、悔いの心を絶対持ちません。私は私の義務と思うことをただ神の前に実行していたのであって、こうして病に倒れている今でも、これが決して不幸なものであるかとか、神の御旨に反した状態に陥っているとかは思いません。
 丈夫で実務に携われて頻りに伝道をなしている時と同じく、こうしてベットに横たわっている事、それ自身の中に於いて、私は神の御旨をなしているのだとの自信があります。」。

 葬儀では、他人を救いて自らを救う事能わず」と十字架の主に言われた言葉で説教された。彼は、日本福音教会で伝道のために命を捧げたはじめての人となり、青山墓地に納められた。

 1883年は日本福音教会が一つの教派として社会的に認知される内実を有した言える年でもあった。教会数3教会、会員数62名、宣教師3名神学校を備え、1年間の学びを終えて神学生から伝道者になった者3名。神学生が3名。またこの年にW・E・ワルツ宣教師夫妻が活動補強の依頼で来日した。ワルツは高い教育を受けており、まもなく東京帝国大学のドイツ語教師としても迎えられた。ワルツ自身は伝道と教育の両立を願ったが、ボードはそれを赦さず、4年間の働きとなった。


2007年11月18日

日本福音教会の歴史(2-6)

 1884年(明治17)から1892年までの約8年間は福音教会の第1期拡大期であった。
まず1884年、日野に新たな伝道所が開設された。新たらしく二人の宣教師が来日した。第二代目日本の総理となるF・W・フェゲランは語学の才能が豊かで日・独・英を流暢に話せた。アダ・ジョンソンは教育事業に高い志をもった女史であったが、この時期の福音教会は、福音伝道以外の教育や医療に理解はなく、フェゲランはまもなく福音教会から離れるのであった。

 宣教師の増加により新しい宣教師館が築地に購入された。日本伝道開始満8年、米国福音教会のエッシャー監督が事業観察をかねて日本を訪問した。以前にも書いたがこのエッシャー監督はハツラー日本総理の伝道を評価せず、一方的に総理制を廃止し、そのことが米国福音教会の反エッシャー側の反発を招き、訪問が米国福音教会分裂の一端となった。エッシャーがハツラーを批判したのは、来日したばかりのフェゲランの報告を信じ、信者の歩留まりがあまりに悪いのは伝道方法が悪いからとの拙速の評価であった。今日も大きくは変わらない日本の教会状況で、特異な日本人の精神性を理解しないうちに、ハツラーを断罪する評価であった。

 1886年、クレッカー記念教会が建設された。エッシャー監督が米国に戻り、夭折したクレッカー宣教師の働きが詳しく紹介され、ボードにクレッカーの志を受け継ぐ教会建設のための献金が各教会から寄せられた。当時の東京で最高級会堂といわれ、この教会は献堂以後関東大震災よる崩壊まで40年間福音教会の中心棟であった。


2007年11月25日

日本福音教会の歴史(2−7)

 1885年(明治18)若くして召されたクレッカー宣教師の夫人と子どもが、教育のために帰国することになる。米国福音教会史でも触れたが、このクレッカー夫人は後に婦人伝道会の偉大な指導者となり、最後まで日本伝道を支援した人物であった。

 またラケル・ハドソン女史も同時に帰国することなる。学校事業を起こす志をもって来日したが、ボード内に福音の直接伝道以外に活動することへの反対が根強くあったことや多大な資金をボードが用意できず支援体制を整えることができなかった。

 この二人の帰国で日本へ派遣された宣教師第一陣全員が九年で全員帰国したことになる。派遣任期のある宣教師だが、三人が神経症的障害にかかり、心身を極度に消耗しての召天または帰国は異常である。
 本記述の原本である「福音教会史」の著者中村征一郎牧師(東金教会)は「正直言って福音教会の日本宣教は少々荷が勝ちすぎたと思うのである。そして、そのあらわれが宣教師達の病気ということではなかったか。日本に遺わされた最初の宣教師クレッカー、ハーンフーパー、ハドソン全てが神経症的障害に陥るというのは並みのことではない」と記している、

 異国の生活に覚悟と適応能力を有した優秀な宣教師達であったが、あまりにも個人の努力と情熱に依存し過ぎ、サポートするポードの組織的計画的支援が十分ではなかったと言えるのではないか。
 神経症に追い込まれた背景には、日本の精神風土を深く理解しないままに、伝道成果があがらない責任を性急に問うボードの姿勢が教師問に不一致をもたらしたことも一因であった。

 日本に福音教会の第一歩をしるした彼らの働きは困難に満ちた働きであったが、命がけで蒔かれた種はその後確実に成長し、須賀川教会を含めて30あまりの教会が日本に誕生したことは事実である。
 この年、福音教会最初の日本人留学生が生まれた。田山又之助。1882年にクレッカー宣教師より受洗し、伝道者として立つ志を与えられた学生補助者として働き、その後米国に10年留学し、帰国して一時明治政府に仕えるが、再び教職に復帰し、宣教師と日本人教職の間を結ぶ大きな役割を果たした人物となった。


2007年12月2日

日本福普教会の歴史(2−8)

 日本伝道開始10年目の1887年(明治20)東京での伝道圏は八王子・日野と広がり、人数も微増したが、全体としては順調と言えるまでにはいかなかった。教会の内外の諸問題に宣教師たちは力を削枯れていた。諸問題を適切に処理するために、この年、日本福音教会の歴史としては特筆される出版事業の開始と福音神学校の開設がなされた。

 最初に刊行されたのは「福音教会条例」であった。米国福音教会の翻訳であるが、教理・教規・職務・心得等が載せられた黒布表紙B6版335ページの分厚い本である。
 次に出版されたのが、「信仰要義」(カテキズム)であった。これも532ページの大冊であり、これで日本語による教会形成と信仰指導の基礎資料が整った。

 福音神学校の設立は、当初から日本の福音伝道は日本人よる教師によって進められるべきと、宣教師たちは願っていた。
 1881年カナダ・メソジスト・ミッションと福音教会が協同して神学校を開設したが、まもなく別れ、各教派の宣教師が自宅で教える形となっていたが、福音教会は独自の神学校設立を決断した。
 場所は既にあったミッションハウスの隣、築地49番地の住宅を購入し改造した。
 神学校の教育プログラムは当時としては画期的なもので、本科は6年、予科は3年で今日の大学で学ぶよりも高度で、授業はドイツ語・英語・日本語でなされ、聖書学はもちろん教養として哲学・地理・倫理学まで網羅する内容であった。
 第1回の入学生は8人で、卒業したのは一人であった。第2回の入学生は18人で卒業は半数であった。
 この神学校は10年続いたが、入学者が減ったことと勉学について行けない学生もあり、差しあたり休校となった。1889年の入学者の名前には後に救世軍の中将となった山室軍平、1890年には後に須賀川教会の牧師となる山本増吉の名がある。


2007年12月9日

日本福音教会の歴史(2−9)

 1888年(明治21)は活発な年であった。統計によると、会員総数224名、受洗者大人84名、受洗こども19名、巡回伝道師7名、定住伝道師2名、会堂5個、牧師館2個、信者の献金184円26銭となっている。

 この年にフィッシャー宣教師が山室軍平に洗礼を授け、まもなく山室が福音神学校に入学したことを先週にも書いた。彼の「私の青年時代」という本によると、当時活版職工として働いている折に、その道すがらにあったクレッカー記念教会に出入りするようになったとの事。山室はすこぶる熱心で、受洗の時に伝道者となる使命を感じていたらしい。優秀であった彼には福音教会神学校の授業に物足らなかったらしく翌年には同志社に転校することになる。

 神学校の名誉のために言えば、彼が入学したのは開校年の第1学年であり、神学教育の内容と体制が整えられていなかった。いずれにしても、後に大衆伝道者として活躍する山室軍平の第1歩は、福音教会からであった。


2007年12月16日

日本福音教会の歴史(2−10)

 1889年(明治22)、福音教会は堅実な歩の年であった。特筆すべき事としては、同朋町の教会と牛込教会が建築されたことがあげられる。

 同朋町の教会は、会員と宣教師たちが捧げた114円によって建てられた。内、79円を日本人信徒たちが捧げたとある。当時としては大金である。牛込教会は米国福音教会の信徒(ペンシルバニヤ州)で医師のデットワイラーが474円を捧げて建てられた。

 また、この年あたりから東京以外の地方に伝道がされるようになった。足利、伊豆、東金。地方伝道の契機は、東京の教会で洗礼を受けた者が故郷伝道を望み、それに福音教会が応えるという形であった。故郷伝道とは、自分一人が救われる野ではなく、愛する家族や故郷の人々もイエス・キリストを知り救われて欲しいという熱烈な愛と信仰から湧き出た伝道であった。

 今日、信教の自由のもと、信仰の個人主義が定着し、子息や家族にさえ同じ信仰をもつことを強く祈らなくなった時代とは隔世感がある。また、この年に二組の宣教師夫妻が来日した。セダー夫妻とナイツ夫妻である。


2008年1月6日

日本福音教会の歴史(2−11)

 1890年(明23)の福音教会は、大きな出来事がない一進一退の歩みであった。須賀川教会関連では、伝道圏が少しずつ北上し、後に須賀川をはじめ東北伝道の拠点となる宇都宮にはじめて伝道したことが記されている。

 1891年(明治24)、「伝道区」であった日本伝道が、「年会区」として創設の認可が米国福音教会総会で可決された。「年会区」として自主自立の伝道圏として承認されたことになる。当時の米国福音教会は分裂した状況で、日本福音教会は多数派(エッシャー監督)に属し、そのために日本福音教会長老司であるフェゲラインは米国総会に出席した。この米国福音教会総会で独自の教会機関紙発刊の許可も下りた。

 この年の宇都宮は布教区となり神学校卒業したばかりの井上運平が赴任している。経過としては足利伝道がうまく行かず、当時神学生であった大橋直次郎が自分の故郷宇都宮が有望であることを語り、伝道の拠点が足利から宇都宮に移されたのだった。井上によって板木県内に伝道が開始され、その実りは僅かであったが、後にこの一歩は大きな恵みを生みだした。それは、東北への足がかりであった。須賀川に伝道が開始される前年のことである。


2008年1月13日

日本福音教会の歴史(2ー12)

 1892年(明治25)、宇都宮伝道所を足がかりに道北伝道がはじまり、その拠点となったのは須賀川伝道であった。これが後に郡山・二本松等の東北伝道の端緒となる。宇都宮伝道所の井上軍平は、1892年7月、8月、9月にわたり須賀川を訪れ、須賀川では計7回の集会を行った。この須賀川伝道は大きな進展を見せ、この年の10月には正規の伝道所として月一円三十銭の家賃をもって集会所を借りる程になっていた。

 この須賀川については次のごとき文書が残っている。
「東京から大分離れた須賀川のようなところに、福音教会がどうして入っていったかという問題が問われるであろう。これは東京から同じく遠い下田、東金に福音教会が導かれたという場合と同じ答えが興へられる。すなわち須賀川の場合も、東京で救われた、我教会の一会員が須賀川に帰ったのである。これは1893年2月27日附のフェゲライン総理の書翰によってあきらかである。

 此書翰において、同総理は述べて、それより以前程遠からざる頃、基督教の少しも伝えられていない、東京より北、約130哩あたりの町に一人の基督者の兄弟が移り住んだ、といっている。この兄弟の招きに応じ、フェゲライン総理と、日本人伝道者が、福音を伝えるために其虚へ行った。此兄弟が誰であったか、本歴史記者は遂に知り得なかったが、兎に角彼が須賀川に移住したということが、福音教会の東北伝道開始に、大いにあずかって力あるものであつた。

 須賀川伝道の当初、仏教僧侶達の反対に遭遇した。
このことも前記フェゲライン総理の書翰中に見られる。同総理は明らかに、須賀川に伝道が開始された直後、そのところを尋ねた。その虚における彼の経験を架のように述べている。『少し前、我等の一人の兄弟が、東京を距る130哩北の町に移り住んだ。此までそこでは伝道がされていない。

 この兄弟の招きに応じ、日本人の伝道者ひとりと私とは、福音を宣伝へにそこに行った。集会については、勿論適当に報道された。ところがこれを聞いて、仏教僧侶達は非常に驚き町から我々を追い出そうと、直ちに企図した。そしてもっとも有効な方法は我々を野次り倒すことだと明らかに考えたらしい。彼等は集会に来た数百の無智な追随者達を用い、我等が語りだすや否や、極端な大聲を発して叫び又笑い、話が出来ないほどに絶叫するという有様であった。

 約二時間もの間、まあ暫く我々に語る時を興えようと申して、繰返し試みたが、聞こうともせず、残念ながら集会を閉じねばならなくなった。言はずもがなその夜、仏教僧侶達は凱歌を奏し、基督教師に對して大勝利したと感謝祭を持ったのである。ところが神は其の夜我等の祈りを聞いて下さった。(続く)


2008年1月20日

日本福音教会の歴史(2−13)

 すなわち15人乃至18人位の人々が、あとで我々を訪ねて来た。そして宗教的教導を求めた。話がすむや重ねての来訪を我々に求めた。以来我々は静かな方法で伝道の業を此町に進めている。結果は次のごとくである。すなわち此虚に10人の洗礼志願者と可なりの数にのぼる求道者が起った。此町で魂が救われるといふ事は、神の御旨であることは明白である。仏教はこれを妨げることはできない。神は彼等の計画を空しくしつつある。それ故に我等は喜び、彼等は怒っている。』」。
 
 神の計画は、常に逆風のなかで前進すると聖書は証する。須賀川教会のはじまりも厳しいものであったが、神さまはそこで不思議に道を開いてくださった。

 この1892年に福音教会では大きな出来事が3件あった。一つは教会の機関誌として「福音の使」が創刊される。当初は月2回発行されたがやがて月1回となる。
 
 須賀川教会関連記事もあり、第1次資料なっている。二つ目は、米国福音教会監督のエッシャーの来日である。約2ヶ月間にわたり、各教会をまわり励ました。三つ目は神学校の改革である。相変わらず神学生は数名であるが、福音教会は数名でも大切に育んだ。神学生はその期間に実践力をつけるために1年間伝道実習に出て訓練を受けることになった。


2008年1月27日

日本福音教会の歴史(2−14)

 「日本福音教会略史」は1893年から1899年までを「第四章 日本年会区の成立」と題している。
 米国福音教会の海外年会区として正式に地位が確立した。それまでも年に一度年会を開催していたが、福音教会の規則では仮年会で決議は最終的に米国福音教会の認可を得なければ正式な決議でなかった。人間で言えば成人式をむかえるように自主独立が認められたと同時に貢任も負わねばならないのと似ている。

 記念すべき第一回年会の様子が記されている。「エシャー監督は明治26年1893年4月23日、日本に来朝した。之は第二回目の来朝であった。監督夫妻は明治18年 1885年の初め、日本に5週間送ったことがある。かくして遂に年会組織といふ記念すべき日が来た。

 ・・・明治26年 1893年6月15日午前8時30分、東京・クレッカー記念教会に会合して第一年会を開催した。専任監督JJエッシャー氏は8時30分、年会組織のためにてきぱきと年会議開催を宣し、監督は異口同音に主の祈りを繰りかえす事を求め、一同はそれに従った。
 次で一同「ちとせの厳よ、我が身をかこめ」の讃美を共に歌った。FWフェゲライン氏は日本語でヨハネ傳17章を朗読し、そのあとで監督は熱烈にして霊的なる、併して信仰に満ち、霊感溢るる祈祷をドイツ語をもって捧げた。
 次いで「イエスよ此の身をゆかせ給へ」の讃美歌を日本語で一同歌い、次いでFWフェゲライン氏と平川富貫氏が、之亦熱き祈祷を日本語で捧げた」とある。
 この第一回年会に登場する「須賀川」の事を拾う。「須賀川教会を宇都宮より分離して単立布教区とす」「須賀川は執事中坪増太郎が担当」とある。


2008年2月3日

日本福音教会の歴史(2−15)

 日本福音教会が米国福音協会の海外年会区として自立した1893年が、須賀川教会設立の年となった。
 須賀川教会設立当時の歴史は、P・S・メイヤーによる「日本福音教会の歴史」(昭和15年8月10日発行の「福音の使」にまとめた形で書かれているが、ここでは少し詳しく説明する。

 宇都宮から分離独立した教会設立1年目(1983年)、中坪増太郎が神学生として伝道実習の任命を受けた。
 しかし、中坪は肺疾患のために赴任は取りやめとなった。その対処として中坪を沼津、沼津に命を受けた大月を須賀川に配置変えをしようとした。ところが、大月はこの配置変えを承認せず神学生を途中でやめてしまった。そのため須賀川の第1年は、専任者を持つことが出来ずに、宇都宮から河合篤叙教師が1年間出張伝道することとなった。
 
 この一年の結果として4人に受洗者、5名の転入者、計9名の会員を得た。また、日曜学校一校、教師一名、生徒数15名と報告され、教会としての形を成すようになってきている。

 先の「福音の使」によると、この年須賀川と郡山の間の笹川という地に新講義所を解説したとある。現在の安積教会住所が安積町笹川であるのも不思議な導きである。また、郡山への伝道は1894年となっている。


2008年2月10日

日本福音教会の歴史(2−16)

 1894年(明治27)、目本福音教会2年目須賀川教会誕生2年目。この年の年会の記録に須賀川講義所に任命されたのは石出精一とある。この石出の名は、「日本福音教会略史」に初めてはじめて出てくる名で、詳しくは解らないが伝道のために派遣された神学生であろうか。僅か1年の任期であった。

 略史には次のようにある。「須賀川はこの年大いに進展を見た、石出の働きにより13名の受洗者が与えられ、転入者も加えて1895年5月末には合計23名の会員を有するまでになった。講義所も正規に開設し(前年までは出張伝道でありその度ごとに一室を借りていた)、さらにこの年12月には月2円50銭をもってより良き場所へと講義所の移転がなされた。

 また、これ以上に特筆すべきは郡山伝道の進展である。石出は1894年10月以後定期的に郡山への出張伝道を始めた。当初は一回毎に室料を払ってのことであったが1895年3月には正規に家を借り、講義所を開設した。ただし、その場所は不明。」とある。この講義所は現在の郡山教会で教団年鑑に郡山教会の創立は1894年2月29日とある。


2008年2月17日

日本福音教会の歴史(2−17)

 1895年(明治28年)、当時の福音教会は1年ごとの教師任命制で任地が変わり、それを拒否することはできなかった。この年、須賀川教会には山本増吉が任命された。略史には当時の様子が次のようにある。「須賀川の山本増吉が新任。その働きは堅実であり、殊に郡山伝道は当時郡山が産業都市として拡大化されつつあったこともあり発展を見た」。

 福音教会は大きな出来事が続いた年であった。まず宣教師団と邦人教師の不一致の露呈である。日本基督教会、組合教会とが相次いでミッション・ボードから独立を果たしたことに刺激を受け、宣教師団からの独立要求が強く打ち出された。米国の福音教会と日本福音教会はたとえれば親子の関係と言え、クレッカー宣教師が日本に一歩を印して早くも19年が経過し、人間ならば成人で自主自立の気運が自然に生まれたとも解釈できる。ただ、日本基督教会や組合教会は、経済的な支援からも自立しようとする気概で独立が行なわれたが、日本福音教会にはまだ経済的基盤と人材的基盤がなく、邦人牧師のナショナリズムからの反抗程度のものであった。

 反抗は米国の福音教会から長老司として任命されている宣教師を日本福音教会の年会において代表に選ばなかったこと。年会の会議で宣教師たちが日本語に訳しにくい語をえいごでもって表現していたが、そうした英語の使用を禁止することに具体的にあらわされた。また宣教師が各教会を巡回する旅費と邦人牧師の旅費に格差あり、格差解消を求め認められた。

 こうしたミッション・ボードと邦人牧師との軋みはどの教派でも起こり、教会内に暗い影を落とし始めていた。大部分の資金を提供していた宣教師たちが大人として振る舞い、時勢したことにより大きな問題とならなかったと言える。

 当時の日本の教派と特徴は以下である。

教派 教会 特        徴
会衆制 日本基督教会
組合教会
 ・会議により民主的に意思を決定する。
 ・教師と信徒の関係が対等に近い。
監督制 メソジスト教会
日本福音教会
 ・会議により代表を選び、
  代表(監督)に強い権限を与える。


2008年2月24日

 〜明治維新頃の須賀川について〜

 江戸時代の須賀川は宿場町として宿場が50軒もあった。須賀川は商人の町交易の町として知られ、「町会所」が須賀川宿を自治していた(当時商人の自治都市としては日本で堺と須賀川だけ)。宿場町として栄えたのは地理的に白河・会津・福島・平の中心に位置したこと、城主二階堂氏が滅ぼされたこと、その城趾に町民が住むことができたことなどの理由がある。

 明治維新となり四村が合併して須賀川町が誕生し、民家は560軒ほどであった。
新政府となって「町会所」が「生産方」として受け継がれ、政府資金をもって地方産業の振興を担い、「県立須賀川病院の開設」「産馬会杜の創立」「第百八国立銀行の設立」が町の三大殖産事業であった。

 驚くのは、この「生産方」の誘致と募金によって、明治六年に県立須賀川病院と須賀川医学校が現在の公立岩瀬病院の地にでき、その2月、後に東京都知事を務める後藤新平が医学校に入学している。
 後藤新平の伝記によれば「当時の須賀川病院は、福島県随一といわんよりは、東京以北有数の大病院であった。何故に県庁所在地たる福島を差し置いて、須賀川にかかる大病院を設けたのであるかというと、それは一つには、この町が付近の商工業の中心地であったのと、いま一つには町民の熱心なる努力の結果であった。」と記し、須賀川町の当時をあらわしている。
                   「繭倉と須賀川の未来を考える会:横山大哲氏講演より」


2008年4月13日

日本福音教会の歴史(2-18)

 1896年(明治29)。在日宣教師と日本人牧師との関係が悪化し、宣教師の辞任が相次いだ。
(2-17参考)また、この影響で米国ミッション・ボードとの関係も悪化し、日本福音教会への援助を打ち切り、中国にまわす動きもあった。

 こうした混乱の中で、須賀川と郡山だけが福音教会内で進展した。
特に郡山はこの年初めて須賀川(山本増吉牧師)から独立した布教区とて認定された。牧師はこの年新しく任命を受けた秋山 咬であった。

 1897年(明治30)須賀川教会の牧師は太田 勇に変わり、山本増吉牧師は八王子・青梅教会に替わった。この年も例外的に須賀川教会のみが礼拝人数が40名を越え、あとの15程度の教会の礼拝は10人から20人であった。須賀川教会の信徒総数は100名に達したとある。略史は「牧師の太田 勇は須賀川の将来は有望であると語っていたがこの年がピークであった」とも記してある。


2008年4月20日

日本福音教会の歴史(2-19)

 1898年(明治31)
この年、宣教師はフェゲラインー人となった。米国福音教会は宣教師と日本人牧師との軋櫟や伝道不振により日本伝道を中止し、可能性がある中国伝道に転進することを考えはじめていた。宣教師の帰国による人手不足で10年継続した福音神学校は一時休校となり、衰退のはじまりのように思えた年であった。須賀川教会は太田勇牧師。

 1899年(明治32)
この年より、毎年ように任地移動があった任地期限を6年とすることが総会で決まった。
福音教会全体は伝道はふるわず、須賀川教会は井上運平牧師であったが一時の勢いはなくなってしまった。

 1890年代後半は、伝道活動の停滞と宣教師の帰国で振るわなかった。
その不振と停滞を経て1900年代に強力な援軍が現れる。日本年会区への米国福音教会婦人伝道会の参入であった。これまで婦人伝道会は財政的な援助に限られ、直接婦人宣教師を派遣することはなかったが、米国福音教会はこの年より日本年会区を婦人伝道会に全面的に委ねて行くことになる。

 これが潮目となり、日本福音教会は勢いを取り戻し、昭和16年の合同時まで存続できたと言える。神のご計画の不思議さを覚える。


2008年4月27日

日本福音教会の歴史(2-20)

 1900年10月、米国福音教会婦人伝道会から日本に婦人宣教師が派遣された。
スザン・バンファインド(30歳、ノース・ウエスタン大卒)、アンナ・カメラー(27歳、ノース・ウエスタン大卒)の二人であった。
 米国福音教会ボードから日本宣教が婦人伝道会の手に大部分が移されたこの時から日本年会区の潮流は大きな変化を見せた。これら派遣された婦人宣教師は「最良の宣教師というべき選ばれた人たちが多かった」(米国福音教会略史P.283)。
 彼女たちは日本福音教会のみならず外に向かっても大きな働きをなした。彼女らが東京下谷と牛込で早速取り組んだのはバイブルクラスであったキリスト教保育連盟、日本聾話学校、大阪水上愛隣館等その働きは実り豊かであった。

 この年の福音教会全体は停滞し、理由は不明であるが教職が他教派(メソジスト派等)に移って辞任するケースが多く、布教区に教師を配置出来なくなった主因であった。
 記録される出来事としては、入学者がなくしばらく休校していた神学校に三人が入学することになり神学校が再会された。須賀川教会教師は三瓶正縄牧師。

  この1900年9月28日にアンダーソン宣教師がイリノイ州に生まれている。


2008年5月4日

日本福音教会の歴史(2-21)

 1901年(明治34)、この年から須賀川布教区は、郡山に続き本宮を伝道圏とすることで、須賀川・郡山布教区と呼ばれた。牧師は三瓶正縄。
 日本福音教会としては、16年前に廃止された総理制を復活させた。理由としては、これまでの長老司制度では、停滞期を打開するには強力なリーダーシップを求められ、監督制にちかい総理制を妥当とした。また、この年、メソジストとの合同が具体化した。

 メソジスト派(メソジスト監督教会、南メソジスト教会、カナダ・メソジスト教会)が1907年になされたが、当初は広くメソジスト系各派に合同参加が呼びかけられた。日本福音教会としては、具体的折衝を重ね「日本福音メソジスト教会」とすることまで決定し、フェゲライン総理が合同の必要性を訴えに米国福音教会総会に出席したが、総会で否決され教会合同には終止符が打たれた。 


2008年5月11日

日本福音教会の歴史(2-22)

 1902年(明35)須賀川・郡山布教区の牧師は、巡回職に復帰した二藤愛之牧師であった。

 1903年(明37)須賀川・郡山布教区の牧師は太田留助牧師。この年の日本福音教会での大きな出来事は、小石川教会敷地内に伝道女学校が創立されたこと。婦人伝道者養成を目的に創立された背景には、婦人の礼拝出席の増加傾向があった。日本伝道開始の頃は、婦人が外出したり 一人で教会の礼拝に出ることは稀であったが、時代と共に婦人の外出や礼拝参加が自由となり、さらに男性と異なり女性信徒は礼拝出席が忠実であった。

 1905年(明38)牧師は二人となり、太田留助牧師と日野原幸二郎牧師。須賀川教会(須賀川町東7丁目)と郡山教会(郡山町堂前22)とに別れた為であった。当時の教勢がどのくらいかは記されていないが、推測できる数字が残されている。福音教会で最大教会は牛込教会で教会員76名、礼拝出席30名、教会負担金99円とある。残念ながら須賀川・郡山両教会の人数は記載ないが、教会負担金が36円とある。そこから推測するに、須賀川教会と郡山教会を合せても教会員数は20名〜30名で礼拝出席は10名から15名程の数字で葉なかったか。
 この年、来日して20年以上が経つフェゲラン宣教師(現総理)が辞任帰国することになった。


2008年5月18日

日本福音教会の歴史(2-23)

 1906年(明治39)ハウク新総理の下で、二人の婦人宣教師も着任した。須賀川・郡山布教区は太田留助牧師。特記事項なし。

 1907年(明治40)須賀川・郡山布教区は、太田勇牧師に代わった。ハウク総理の下、全体としては落ち着きを取り戻し教勢低迷状態を脱する気配を見せた年であった。

 1908年(明治41)須賀川・郡山布教区は太田勇牧師。この年11月より、二本松に伝道が開始され、太田牧師が出張伝道を行っている。この伝道が後年の二本松教会の誕生となった。

 1909年(明治42)この年から須賀川と郡山がそれぞれ独立布教区とみなされ、須賀川を産形与一牧師が担当、郡山を太田勇牧師が担当した。分かれた理由は郡山が盛んになった為であった。福音教会全体としては、後に大きな働きをなすP・S・メーヤー夫妻が来日している。


2008年5月25日

福音教会の歴史(2-24)

 1910年(明治43)
 須賀川教会は産形与一牧師、郡山教会は山田幸一牧師。
活発な活動をするまでに成長した婦人伝道会が、福音教会内で重要な位置を占めるようになった。これまで男性宣教師の補助者としての働きに限られていたが、この年にエルフマヤー婦人宣教師が男性宣教師と同等の権限が与えられ大阪・神戸に派遣された。福音教会が婦人伝道会を独自の宣教機関との立場を認めた結果であつた。

 日本福音教会の最初の杜会福祉施設愛泉寮が誕生した。小石川教会の信徒であった者が窮状のために幼児二人の世話を放棄せざるを得なかったのを婦人宣教師たちが伝道女学校の寄宿舎に預かったのがはじまりであつた。

 1911年(明治44)
 年会の報告によれば総会員数は1,033名となり、布教区も10年前に比べ3割ほど増加し、礼拝出席者も微増傾向にあった。そのためもあり、日本福音教会を東京を中心とした東部管轄区と大阪を中心とした西部管轄区に分けた。

 布教区の増加のために邦人牧師が不足し、邦人巡回牧師22名中、半数の11名が他教派からの転籍者を数えるまでになった。福音教会内から育った貴重な人材が様々な原因で他教派に流れてしまうのも副因であった。そのために福音教会の敬虔主義的な神学を継承するというより個性的な牧師集団となり、信仰的一致を欠いた集団となってしまった。その結果、宣教師と神学的傾向が等しい者たちが福音教会中枢を占め、一方そうでない者達がいわば体制内野党の立場を取り、この頃よりこの対立構図が顕著となって来ている。

 この年の福音神学校校長はメーヤー、夜学英語学校長は田山又之助とある。現在の日本聖書神学校が夜学の神学校であるのは、すでにこの流れにあったのかもしれない。またこの年に福音教会として初の幼稚園事業が麻布布教区に開始された。名称は朝日幼稚園。


2008年6月1日

日本福音教会の歴史(2-25)

 1912年(明治45・大正元年)
 郡山教会・須賀川教会は中澤一治牧師、関本俊雄牧師が担当。中澤牧師は1年前に聖公会から転入した教師で、二本松に住み積極的な伝道にあたった。また矢吹にも伝道した。

 福音教会全体の出来事では@ミッション予算が23,000円より33,000円に増額された。A目白(現在の目自教会と日本聖書神学校地)に土地(2,660坪)を購入し、宣教師団の本部を狭い築地より移転する計画が決議された。

 1913年(大正2)
 この年、ハウク総理が辞任・帰国した。
 ハウクは13年にわたり日本で活動し、総理になってからの働きは見るべきものがあり、停滞から活況へと日本福音教会の伝道を転換させた。辞任・帰国の理由は、自身の健康、夫人の健康、子どもの教育間題が主な理由であった。

 ハウク総理に代わりアンブライトが総理に選任された。また、長老司の一人に田山又之助が邦人で初めて選任され、教団執行部に加わった。

 須賀川・郡山布教区は中澤牧師の働きにより、二本松講義所の発展を見た。


2008年6月8日

日本福音教会の歴史(2-26)

 1914年(大正3)。須賀川教会と郡山がこの年から完全に分かれて独立布教区となった。須賀川担当は新しく上代知新(かじろ ともよし)牧師。 詳しい経歴は須賀川納骨堂のボックスに掲示されている。
 上代牧師は組合教会よりの移籍1年目であった。須賀川教会と郡山教会の分離により、須賀川教会の石川・矢吹への伝道が開始され、郡山教会は本宮・二本松への伝道を担当した。記録によれば須賀川の教会員数は34名、郡山は33名であつた。

 1915年(大正4)。福音教会の日本宣教40年目で、初めての出来事として@福音教会年会の議長は監督の宣教師が就任することが慣例であったが、監督が米国出張の為に田山又之助が議長となった。A小石川福音教会が福音教会で初めて自給教会とされた。

 福音教会は東京、大阪の二管轄区で構成されていたが、この年より福島が一つの拠点と認められ、東京・大阪・福島の三分する取り扱いがなされるようになった。またこの年に郡山と二本松において幼稚園の開設が模索されたとの記述が残されている。


2008年6月15日

日本福音教会の歴史(2-27)

 1916年(大正5)。須賀川は上代知新牧師、郡山は中澤一治牧師。全体としては大きな変化はなかったが、個別では郡山教会に会堂及び幼稚園設立がみられたことや二本松教会に小さな会堂が建てられたとの記録がある。

 1917年(大正6)。須賀川は上代知新牧師は3年目、郡山は中澤一治牧師は6年目を迎え、記録には「須賀川、郡山が進展を見せた」とある。
 郡山宣教区にランケ、シュワブ、モークの宣教師が派遺された。伝道婦として須賀川から二本松へ横辺美枝が、下谷から須賀川へはハマノ?が派遣されたとある。伝道婦とは、女性献身者として伝道の補助を行う人。


2008年6月22日

日本福音教会の歴史(2-28)

 1918年(大正7)
 須賀川教会は上代知新牧師、郡山教会は中澤一治牧師。
 須賀川教会婦人宣教師はランケ。伝道婦は尾藤久淳。
 郡山教会婦人宣教師はシュワイッァー。二本松教会の伝道婦は横辺美枝。この年に郡山教会宣教師館建築(6,600円)がなされ、二本松教会は大火で会堂が焼失し、敷地が借地であったので新たに会堂用地(101坪、500円)が購入された。

 1919年(大正8)
 須賀川教会は林 近牧師に代わる。郡山・二本松教会は宮城喜代三牧師。婦人宣教師はシャーマー。この年は特に大きなできごとはなかったが、田山又之助(西部長老司)が邦人牧師として初めて米国ボード会議と米国福音教会総会に議員として出席した。

1920年(大正9)
 須賀川教会牧師は上代知新に戻る。林近牧師の消息は不明。婦人宣教師はシャーマー。伝道婦は景山とある。
 第28回年会で議長アンブライトは次のような演説をしたとある。
 「現今日本における373名のプロテスタント男性宣教師中我が福音教会は3名。375名の婦人宣教師中我が教会は10名。任職を受けまたは受けざる邦人牧師は2,563名中我が教会は30名。557名伝道婦中我が教会は27名。プロテスタント全会員数110,069名中我が会員は1,298名と日曜学校生徒152,245名中我が生徒数4,214名」。


2008年6月29日

日本福音教会の歴史(2-29)

 1921年(大正10)
 須賀川教会担当は上代知新牧師であったが、翌年の2月18日に召天(69歳)。
  1852年(嘉永5年)愛媛県松山に伊予松山藩士の子として生まれる。
  1919年(明治8年)大阪梅本教会で新島裏より受洗。同志杜神学校に学び、1905年(明治38年)ハワイ・オアフ島で日本人伝道に従事。帰国後、一時伝道より身を引くが、福音教会に転籍して復帰。
 須賀川には1928年(大正3年)から1932年(大正7年)の5年問と1934年(大正9年)からこの年までの2年の計7年間の牧会であった。
 須賀川には山形県米沢出身の後妻トクと一緒であった。現在納骨堂に写真が飾られているが、背が高く髭をはやしている。

 福音教会略史には次のようにある。「彼は組合教会よりの転籍者で、その故もあってか福音教会ではもっぱら地方伝道を担当した。しかし、彼は組合教会にあっても著名な人物であり、ハワイにまで伝道を試みた力ある牧師であった。福音教会に転籍後もその働きは見るべきものがあり、いずれの任地においても教会を堅実に発展せしめたのである。」。

 知新の先妻の子であった淑(よし)は後に教師となり、米国留学を経験しキリスト教主義学校の山陽英和女学校(現山陽学園)の校長を51年問務めた。現在の山陽学園(幼稚園・短大・大学)の基礎を築いた人物であった。

 知新牧師召天後、トクは一人須賀川に住んだが教会とは離れてしまったと聞く。当時の信徒たちは知新牧師を慕い、江持の石山から掘り出した石を墓碑とし、当時共同墓地であった勝誓寺に建てた。後にトクも共に葬られたが、遺骨は引き取られ、現在岡山教会の納骨堂にある。2004年にその墓碑が無断で撤去されたため、納骨堂完成時に記念した。

 郡山・二本松は中坪経世牧師。郡山宣教地委員会のメンバーは、ランケ、シャーマー、アンブライト。

 婦人宣教師任地でランケは郡山教会、シャーマーは須賀川教会。伝道婦任地は二本松教会は佐藤、郡山教会は長瀧、石川教会は景山由縁、シャーマー宣教師ヘルパーとして南雲千代。尚、須賀川教会の伝道婦は人選できなかったとある。 

 この年に増加した教会として須賀川教会があり、会員77名から83名となったとある。もっとも会員数のこれだけ増加が、そのまま礼拝出席者が増加したと言えないところに日本の伝道の難しさがあったことは以前に書いた通りである。


2008年7月6日

日本福音教会の歴史(2-30)

 1922年(大正11)
 須賀川教会には日本基督教会より転籍した海老原章憲牧師が着任、郡山は中坪経世牧師、二本松教会はこの年より郡山から独立布教区となり、牧師は本川二郎。

 郡山宣教師委員会はランケ(郡山)、シャーマー(須賀川)、アンブライト。伝道師は郡山(長瀧)、須賀川川(南雲千代)、石川(景山由縁)。

 この年、福音教会婦人宣教師としてキュックリッヒがドイツ布教区から来日した。彼女は日本のキリスト教教育草分け的存在で、後にキリスト教保育連盟を立ち上げメンバーとなり、日本キリスト教保育・教育の中で大きな位置を占める働きをなした。


2008年7月13日

日本福音教会の歴史(2-31)

1923年(大正12)
郡山・二本松は立松豊牧師、須賀川は記載なし。
 郡山宣教委員会はランケ、シャーマー、ウイルキンソン、アンブライト。婦人宣教師は郡山・須賀川がランケ。郡山はウイルキンソン。伝道婦は須賀川は岡本智子、郡山は佐藤由縁。
 この年は関東大震災が発生し、三教会が全壊するなど甚大な災害を被った。

1924年(大正13)
 須賀川は上井乙熊。山口某が石川講義者を担当した。
上井と山口は共に日本伝道隊よりの応援であった。
郡山宣教委員会はウイルキンソン夫妻、ランケ、アンブライト。婦人宣教師はランケが郡山・須賀川・二本松を担当した。ウイルキンソン夫人が郡山、婦人伝道婦は須賀川が岡本智子、郡山は佐藤安子が担当した。


2008年7月20日

日本福音教会の歴史(2-32)

1925年(大正14)
 須賀川・石川はト井乙熊、山口某。郡山・二本松は白根喜四郎。郡山宣教地委員会はランケ、ウイルキンソン夫妻、アンブライト。婦人宣教師はランケ(須賀川・郡山)。伝道婦は須賀川(杉原)、郡山(白根タマ)。須賀川は不明であるが、各教会負担金記録があり、当時は年間経費の約2割を負担する制度で、郡山(180円)二本松(72円)との記録がある。

 この年、郡山教会会堂の整備が行われた(15,000円)。この年の総会で二つの重要議案「教会刷新運動」「三十年自給案」が可決された。「教会刷新運動」は、伝道の躍進をめざしたものであり、「三十年自給案」は三十年の長期計画で自給教会として財政の充実をはかろうとするものであった。この計画は漸次にミッション側の支出額を減らし、逆に福音教会側を増額し、福音教会のミッション依存を脱却し徐々に自立する計画案であった。ただしこの計画は計画通りには実行された形跡はない。

 この年、キュクリッヒ婦人宣教師を中心に小石川教会に幼稚園保母養成所が新入生17名をもって開設された。幼児保育は日本福音教会において伝道に欠かせぬ事業と認識され、この養成所が創設されたのであった。


2008年7月27日

日本福音教会の歴史(2-33)
 
 1926年(大正15)
須賀川は自根喜四郎、郡山・二本松はウイリアムソン、田中実。婦人宣教師は郡山はウイリアムソン婦人。この年より須賀川担当の婦人宣教師の名前はなく、郡山の会堂整備(宣教師館)が出来たので、福島県の伝道拠点は須賀川から郡山に移ったと言える。伝道婦は須賀川(白根玉子)郡山(鈴木政代)。

 福音教会としてはアンブライト総理時代の14年が終わり、福音教会が日本基督教団と合同する1941年(昭和17)まで総理を務めるメーヤー総理時代を迎える。

 アンブライト総理時代の14年を日本福音教会略史は次のように総括している。「この時代は一言で言えば安定期とでもいうべき時代であった。爆発的発展は示さなかった。しかし、教勢は堅実な発展を示し、教会員数は大正2年との対比において6割増加を見、布教区については目白、泉尾といった有力な布教区が創設された。また会堂及びその敷地といった点についても次第に整備されてきた時代であった。」。


2008年8月3日

日本福音教会の歴史(2-34)

1927年(昭和2)
 この年より1941年(昭和16)の日本基督教団合同による福音教会の解散までの15年間、メイヤー総理の時代となる。大正15年12月26日大正天皇逝去に伴う大正時代の終焉、昭和2年大金融恐慌、昭和4年世界大恐慌の経済不安、世界各地に続く地域紛争、そして第二次世界大戦の勃発と緊張の強いられる時代にあって堅実な舵取りを行ったメイヤー総理であった。
 この年の須賀川・石川は坂本富弥牧師、郡山・二本松はウイリアムソン宣教師、村杉重次牧師。宣教師任地は郡山にウイリアムソン夫人。伝道婦任地は須賀川・石川に(渡辺)、郡山に(鈴木政代)であった。

 この年は明治9年11月の日本福音教会伝道開始から50年で「伝道開始五十年記念運動」が展開された。記録によれば「郡山が一時の停滞を脱し進展した」、「須賀川は途中坂本富弥の病気・離任により教勢に停滞をきした」とある。


2008年8月10日

日本福音教会の歴史(2-35)

 この年(1927年)より従来の教会種別が変更になった。これまでは、財政規模や教会員数等で分類し、「年会教会」(自立した教会)と「ミッション教会」(財政支援を受けている教会)に二種に分かれていた。新分類は五種に教会財政を基準に分け、自給独立の努力を各個教会に意識づけるねらいがあった。

自給・準自給 自給できる教会 小石川、築港、泉尾の3教会
第1級  自給金月額50円負担目標 麻布、目白、本郷、他5教会
第2級 自給金月額50円負担目標 郡山、本所、青梅、他2教会
第3級  自給金月額30円負担目標 神戸、東金、下田、他5教会
第4級 自給金月額20円負担目標 須賀川、石川、二本松、他7教会

 1928年(昭和3)
須賀川・石川はウイリアムソン、徳永祐一(青山学院を卒業した新任)、郡山・二本松はウイリアムソン、宮川勇(ただし、途中で退く)。須賀川担当の婦人宣教師と伝道婦の名称はない。
 この年、石川に幼稚園を設置する決議がなされた。
この年の9月、アイリーン・アンダーソンが来日した。
福音教会略史は以下の紹介がある。「彼女はイリノイ年
会出身。幼稚園の働きの為に任命を受けた。後年、郡山を中心とした地方伝道に大きな足跡を残した」。

 1929年(昭和4)
須賀川・石川は徳永祐一、郡山はウイリアムソン。
二本松は内海啓蔵(日本伝道隊からの応援)。この年福音教会ははじめて2,000人を超す会員を有した。」
婦人宣教師の担当でアンダーソンは目白教会となっている。

 1930年(昭和5)
須賀川・石川は徳永祐一、郡山は万木源治郎、田中実。二本松は内海啓蔵応援。この年の4名の神学生名簿に本川直躬と村上束がある。宣教師任地で郡山(ウイリアム夫人)、アンダーソンは日本語研修の為待機中。
 賀川豊彦を中心とした「神の国運動」が超教派で実施され、福音教会も参加し伝道集会が須賀川で開催された。


2008年8月17日

日本福音教会の歴史(2-36)

1932年(昭和7年)
 福音教会の教会員数は2,170名、前年度比42名減、受洗者数187名とある。この年の大恐慌による不景気は各教会に打撃を与えた。この年にあえて福音教会は「教勢倍増運動」を計画した。結果として教勢倍増とはいかなかったが、着実な増加を見せ、この運動は実りあるものとなった。

 須賀川・石川は牧師欠員で神学生の村上束を学生補助者として伝道させたとある。石川伝道所と石川幼稚園は人材不足と財政不足を理由にこの年に伝道所・幼稚園共に閉鎖とある。郡山・二本松は木山勇司。伝道婦は郡山(村上栄子)、須賀川(荒川)となっている。

 この年の記録に福音教会の伝道方針として教会と幼稚園事業が結びつけられた伝道方策がとられ、23園を数えている。まだ、栄光幼稚園の名はない。各個教会の年度末会員数及び受洗者数が残っているので参考まで。郡山(63名、3名)須賀川(55名、6名)
二本松(13名、0名)。


2008年8月24日

日本福音教会の歴史(2-37)

 1934年(昭和9)
須賀川教会担当の村上束は入営のために無牧であった。村上は1カ年間の兵役義務を終えて福音教会に復帰。
郡山・二本松は木山勇司牧師。婦人伝道師は郡山・須賀川(菊池信子)。メーヤー総理が休暇で帰米し、アンダーソンも同時に休暇帰米した。
二本松教会の会堂が1,200円で建築された。

 1935年(昭和10)
 クレッカー博士日本開教60年記念の年であったが、特別な活動もない平穏な年であった。第43回年会が小石川福音教会で開催され、前年度教会員数2385名受洗者数149名とある。

 那山・須賀川は木山勇司が担当し、二本松教会にははじめての専任牧師の原田育三が着任し、独立布教教会なった.除隊し復帰した村上束は杉並教会の副牧師となった。婦人伝道婦から婦人伝道師と名称が変更され、郡山に林田正子とある。9月にメーヤー総理と共にアンダーソンも帰国復帰し、アンダーソンはすぐに郡山の任命を受けた。この年に神学校の卒業者に本川直躬の名がある。二本松教会の牧師館増改築がなされた。教勢報告が残されている(受洗者・教会員・朝礼拝出席者数)、須賀川(1名・59名・朝礼拝なし)郡山(4名・48名・27名)二本松(O名・20名・6名)。


2008年8月31日

日本福音教会の歴史(2-38)

 1936年(昭和11)
 二・二六事件が起こり、軍部主導による国家の危機が声高に叫ばれた年であった。しかし、福音教会自体は、大きな変事もなく、60周年記念プログラム以外格別の計画も立てられなかった。福音教会開教記念プログラム10箇条は当時の課題を表している。
@全教会の霊的充満と諸機能の活躍をはかること
A尚十年間に教会を50個所にすること
B会員数を5千名以上に増加すること
C日曜学校事業の更新発展に努めること
D家長会を起こすこと
E農村伝道につき委員を挙げて具体的調査研究を為すこと
F社会事業委員を挙げて研究すること
G福晋教会の教職及び学校、幼稚園教師の教養資格、待遇を高めること
H自給精神を向上せしむうること
I建築資金募金。

 須賀川教会は欠員、郡山教会は木山勇司、二本松教会は原田育三。新任の本川直躬牧師は青梅教会。婦人伝道師は、須賀川が会津八重、郡山が林田正子。宣教師は7人でアンダーソン宣教師が東北担当となっている。米国の本部に宣教師派遣要請を再三なしても米国も大恐慌の後で応えられなかった。

 年会報告書の中から関係するものを拾う。「須賀川は近来に無き好況を以て應ひられ教勢頗に活況を呈し受洗者相増し、専任牧師派遣及び建築申請を呈出するに相応しき状況あり」。「郡山教会に関連する母子ホーム新築計圃の儀着々進行中なり。」「各個教会で受洗数において見るべき教会は小石川(20名)郡山(15名)本郷(15名)須賀川(13名)城北(13名)本所(12名)。」。


2008年9月7日

日本福音教会の歴史(2-39)

1937年(昭和12)
 この年は日中戦争(支那事変)が勃発し、国民精神総動員が声高に叫ばれ、一気に戦争に突入した時代であった。村上束牧師が復員するが更に第一線に復帰を所望するなど福音教会でも戦争機運が盛り上がり、「福音の使」誌上でも支那を打つべしとの論調が盛んに見られる。

 この年の年会で農村伝道委員会が組織された。不況による農村の疲弊を教会の働きで改善する方策であり、これまで都市教会に重点を置きがちだった視点を農村教会へ目を向けるべきとの反省があった。福音教会にあって農村教会として挙げた教会に須賀川教会・二本松教会の名がある。農村教会と農村への視点は、米国開拓移民として出発した福音教会の原点回帰でもあった。

  郡山(船本坂男・この年は10名受洗者)、二本松(原田育三)須賀川は数年ぶりに新任教師が着任(藤崎五郎、辺見正哉)、本川直躬牧師は青梅教会。婦人伝道師郡山(福島静子)、宣教師任地でアンダーソン(郡山)。以下部会長報告より「郡山」は最初有力なる会員の加増によりて、漸く面目を新たにし堅実な発展を促進しつつあり。「須賀川」は新進の教師を迎えて多年の希望をみたし更に進んで近く土地建物までも得んとの盛んなる気勢の働きつつあるは刮目すべきなり」。

  事業及び事務報告では「(ハ)須賀川教会は土地選定中なりしが最近停車場付近に適当の場所を見いだしたる理事会の所見に同意して出願する場合は同敷地を購入し併せて建築(会堂及び牧師館)に着手するに至る予定なり。」とある。
 

2008年9月14日

日本福音教会の歴史(2-40)

 1938年(昭和13)
須賀川教会は辺見正哉牧師、郡山教会は船本坂男牧師。婦人伝道師、須賀川は高村千代子、郡山は福島静子。この年より、簡単な各個教会報告が残されている。

 須賀川教会:牧師の病気次で永眠(原文のまま)、婦人伝道師中途結婚の為の辞職等の出来事ありしも船本牧師の応援にて集会を保つ、敷地を購ひ会堂牧師館建築中なり。辺見牧師は病気のために静養していたが1月17日に永眠している。この年、須賀川教会が土地を購入し牧師館を建設し、7月にそれが風水害のあったとある。郡山教会V集会頗に好況となれり、牧師須賀川教会を援けつつあり。


2008年9月21日

日本福音教会の歴史(2-41)
1939年
 須賀川(深谷淳太郎)ただし年度途中で退職。郡山(原田育三)年度途中で退職。二本松(今井一郎)。婦人伝道師は郡山(池田照子)母子ホーム(加藤栄子)
 この年の9月、ドイツのポーランド侵略に端を発し、第2次世界大戦が勃発した。日米関係も米国による日米通商条約破棄により、悪化をたどり、国民の反米感情も高まり日本国内はますます緊張の度合いを高めた。
 
 このような雰囲気の中、国民の目もキリスト教に厳しくなり、礼拝人数の停滞がこのころから見えだした。またこのような外の動きに呼応するようにキリスト教愛国団体ともいうべき信徒団が組織され、戦争遂行に協力的姿勢を示した。
 
 この年、アンダーソンの願いが結実し、母子ホームの建設が実現した。献堂式は5月25日、折柄第21回婦人伝道総会が郡山で持たれ、それも相まって盛大な献堂式が持たれた。
 須賀川教会と牧師館も完成した。各教会報告。
須賀川。美しき新会堂及び牧師館建立せられたり、過日一名の幼児受洗者あり将来の発展を祈るものなり。


2008年9月28日

日本福音教会の歴史(2-42)
 1940年(昭和15年)
 日中戦争がその戦局を拡大し、米英関係が悪化した。
 神話にもとづく皇紀2600年式典が盛大に祝われ、国民を挙げて国策に一致協力するよう要請され、急速に右傾化した。

 1939年に成立した宗教団体法が施行され、宗教に対する国家介入が強引になされキリスト教界は各派の統合と外国ミッションとの関係切断が強いられた。早くから自給伝道を目指していた日本基督教会や組合教会と異なり福音教会は自給体制が整っておらず、米国福音教会ミッショVン・ボードからの独立は大きな痛みが伴うものであった。
 このような状況で宣教師団は次第に表面から引き、日本福音教会も議長がメイヤーから篠原金蔵に代わった。
 これについてメイヤーは日本福音教会の成長や日本人の手による運営が本来のあるべき姿と述べているが、最大の理由は日本の軍国主義に伴うあからさまな外国人排斥の風潮であった。
 これらの情勢を考えれば、前年にボードの支援のもと須賀川教会の会堂と牧師館が完成しは最後の機会であった。

 任地は郡山が村上 束、須賀川と二本松は無牧。本川直躬牧師は横須賀。婦人伝道師は郡山(池田照子) 母子ホーム(加藤栄子)須賀川(塚田浪子)。以下、各教会報告。須賀川:新会堂をめぐまれたる同教会は、この地に適し良き伝道者を与えられ、教勢あがれり。受洗者8名を算えたり。郡山:再度應召たる武勲を大陸に建て、凱旋せる村上牧師を迎えたる同教会は、教会内にも戦闘の意気にみち、奮起の気構を示せり。母子ホームの働きの祝福を受け、会衆も増加せり。由って本年会これを一布教区とされん事を希望せり。(注、布教区とは経済的に独立した教会のこと)二本松:時局の影響相当なるも、教職、信徒協力、重き負担に耐えつつ善戦せり。
 
 人事では「野津源市氏を臨時採用、部長の下須賀川教会に任命せり」「平澤政経氏を臨時採用、部長の下二本松教会に任命せり」「補助者として安藤喜一氏を臨時に採用任命せり」とある。


2008年10月5日

日本福音教会の歴史(2-43)
1941年(昭和16)
 日本福音教会史もいよいよこの年をもって終結する。
この年の6月24日、ついに福音教会も合同しての日本基督教団の創立となったからである。日本福音教会は発展的にこれらを受け止め、教会を解消した。この年の任地。郡山(村上束)、須賀川(欠)、二本松(欠)。婦人伝道師は須賀川(塚田栄子)、母子ホーム(橋本かね子)。

 この年度は形として6月24日で終了しなければならないが、実際は翌年1月23日より第50回日本福音教会年会が小石川福音教会で開催され、これが最後のしめくくり年会とされている。

 人事関係記録では、「野津源一氏を臨時採用し部長の下に須賀川教会集会の担任を委嘱せり。小室牧師五月軍務より帰還せられたるをもって二本松教会牧師として任命せり。」とある。
 宣教師たちも次第に強制帰国し、昭和16年12月8日遂に日米戦争が勃発し、ほとんどの宣教師が辞任帰国に至った。開戦後も残った宣教師たちは厳しい監視の下におかれ、収容所生活を送りながら日本に踏みとどまった者もいた。昭和18年9月メーヤー夫妻の帰国でほとんどの宣教師が帰国した。敗戦まで残った宣教師はモーク宣教師、クレーマー宣教師の二人であった。


2008年10月12日

日本福音教会の歴史(2-44)
1941年の続き。
 日本を鬼畜米英などとあからさまな嫌悪を持って追われた宣教師たちであったが、日本の敗戦後、モーク、クレーマー、メーヤー夫妻、ハツラー、アンダーソン、キュックリッヒ等、みな日本での働きにいち早く復帰した。日本福音教会にあって良き宣教師に恵まれたことは、なんと幸いなことであったろう。彼らが日本に戻った時は、米国にあって既に福音教会と同胞教会の合併がなり、福音同胞教会の宣教師としてであった。そして戦後の日本の復興に大きな力を与え、その働きは旧福音教会、旧同胞教会の枠にとどまらず広くキリスト教会全体に及んだのであった。

 新日本基督教団総会については、総会前に数度教会合同準備委員会がもたれ、福音教会より主に広野捨二郎、篠原金蔵が窓口となって折衝にあたった。そして各会派の調整が為され、6月24日富士見町教会に創立総会が持たれ、遂に新教団創立が為された。合同教派数34教派11部会に分かたれ、信徒数は30万近く、教団統理者富田満(旧日本基督教会)、統理代務者小崎道雄(旧組合教会)、総会議長阿部義宗(旧メソジスト教会)の布陣であった。ここに日本福音教会は終了した。



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