牧師東西南北
須賀川の歴史

2008年10月26日から週報の牧師東西南北に連載された
須賀川教会(1)の歴史についての内容を記載する。

 
福音教会の歴史と神学 2007年1月7日
アメリカ福音教会の歴史 2007年 1月14日〜2007年10月 7日
日本福音教会の歴史 2007年10月14日〜2008年10月12日
須賀川教会の歴史(1) 2008年10月26日〜2009年5月3日
須賀川教会の歴史(2) 2009年 5月10日〜




須賀川教会の歴史(1)

2008年10月26日

須賀川教会の歴史(3−1)

 須賀川教会の歴史(3)‐1

 P・S・メイアー著「日本福音教会史」より
 1940年、昭和15年7月7日(日曜)午後、福島県須賀川に新たに立てられて教会の献堂式が執行された。之は郡山・二本松・石川の兄弟姉妹方と共に、須賀川教会の会員方にとっては、非常に恵まれたときであった。此教会の献堂式も亦、東北伝道の劃期とならん事を期待する。

栃木伝道より

 数ヶ月前、栃木県に於ける福音教会の歴史を記した。
 それによっても知られる如く、1889年・明治22年10月の頃、既に足利に働きは始められた。1891年・明治24年、足利伝道は中止され、宇都宮が伝道道地として取り上げられた。宇都宮は活動の中心地となり、栃木県下、10以上の、町々に伝道が為された。当時の牧師は井上運平師であった。
 1892年・明治25年の夏、井上牧師は福島県に働きの手を伸べた。7月8月9月の3ヶ月間に須賀川で7回の集会を開き、毎月60銭の賃借料を払った。之等の集会は宿屋で催された。10月から一軒屋を借り1ヶ月壱円五拾銭を支払った。で此伝道所の設備費といふものを次にあげてみるが、これによってみてもわかるやうに、当時は、伝道事業を遂行するといつても随分費用は安くすんだやうである。
 テーブルが60銭、提灯が35銭、看板が25銭、懸洋燈40銭、卓上燈25銭、大火鉢35銭、椅子50銭であった。
 宇都宮の働きは数年続いたが、此働きの永続的成果は東北の教会、即ち須賀川・郡山・二本松であった。


2008年11月2日

須賀川教会の歴史(3−2)

 東京から大分離れた須賀川のような所に、福音教会がどうして入っていったのかといふ間題がとわれるであろう。之は東京から同じく遠い下田・東金に、福音教会が導かれたという場合と同じ答えが与えられる。即ち須賀川の場合も、東京で救われた、我教会の一教会員が須賀川に帰ったのである。之は1893年2月27日付フェゲライン総理の書簡によって明らかである。

 此書簡に於いて、同総理は述べてそれより以前程遠からざる頃、基督教の少しも伝えられていない、東京より北、約百三十里あたりの町に一人の基督者の兄弟が移り住んだ、といっている。此の兄弟の招きに応じ、フェゲライン総理と日本人伝道者が、福音を伝える為に其処へ行った。此兄弟が誰であったか、兎に角彼が須賀川に移住したという事が、福音教会の東北伝道開始に、大にあづかって力あるものだった。

佛教の妨害
 須賀川伝道の当初、佛教僧侶達の反対に遭遇した。
 此事も前記フェゲライン総理の書簡中に見られる。同総理は明らかに、須賀川に伝道が開始された直後、其処を訪ねた。其処に於ける彼の経験を次様に述べている。『少し前、我等の一人の兄弟が東京を距る百三十里北の町に移り住んだ。之まで其処では伝道がされていない。此兄弟の招きに応じ、日本人伝道者一人と私とは、福音を宣伝へにそこにいった。集会については、勿論適当に報道された。処が之を聞いて佛教僧侶達は非常に驚き、町から我々を追い出そうと直ちに企画した。


2008年11月9日

須賀川教会の歴史(3−3)

 そしてその最も有効な方法は我々を野次り倒す事だと明らかに考えたらしい。彼等は集会に来た数百の無知な追随者達を用ひ、我々が語りだすや否や、極端な大声を発して叫びまた笑ひ、話が出来ない程に絶叫するといふ有様であった。約二時間もの間、まあ暫らく我々に語る時を与えよと申して、繰り返し試みたが、聞かうともせず、残念ながら集会を閉じねばならなくなった。言わずともがなその夜、佛教僧侶達は凱歌を奏し、基督教教師に対して大勝利したと感謝祭をもつたのである。処が神はその夜我々の祈りを聞いて下さった。即ち十五人から十八人位の人々が、あとで我々を訪れてきた。そして宗教的教導を求めた。話がすむや、重ねての来訪を我々に求めた。以来我々は静かな方法で伝道の業を此の町にすすめている。結果は次の如くである。即ち此処に十人の洗礼志願者を可なりの数にのぼる求道者が起こった。此町で魂が救われるという事は、神の御旨である事は明白である。佛教は之を妨げる事は出来ない。神は彼等の計画を空しくしつつある。それ故に我等は喜び、彼等は怒っている。』。
 殆ど五十年前に書かれた此の書簡は、今日もはや存在しない出来事について、意味深く物語っているといへよう。


2008年11月16日

須賀川教会の歴史(3−4)

第一年会の時
井上牧師は、1893年・明治26年6月迄、宇都宮から須賀川に伝道を継続した。日本年会は、この時組織され、第一次会の記録の中に次の様な事がある。
「須賀川伝道所は宇都宮伝道地より分離し、その周辺の場所と共に新伝道地となり之を須賀川伝道地と呼ぶ」云々。

此第一年会で、中坪増太郎牧師が、組織されたばかりの須賀川伝道地の正規の牧師として第一の人となった。然し、何らかの理由で、後になっては判明しないが、中坪牧師は此任地には行かなかった。それでもう一年宇都宮伝道地の牧師は河合篤叙であった。

 年会結成後の第一年の須賀川伝道地の統計によると、年度始めには会員はなかったが、その一年に四人の人が受洗し会員として受け入れられた。尚、五人の人の転会状をもって転入会し、年度末には全体で九名の会員となった。一つの日曜学校があり、教師一名、生徒数十五名であった。ただ不思議な事は牧師給の為には何も献げられていない事である。


2008年11月30日

須賀川教会の歴史(3−5)

第2年会後
第2年会の時、石出精一牧師が須賀川に任命された。彼は6月の年会後直ちに尾の地に移った。須賀川に家をもった第1の牧師である。
 石出牧師は須賀川に1年いた。その1年に受洗者13名になった。献金総額は9圓54銭、前年に比べて非常な増加とはいへなかった。牧師給の為に会員からは何も献げられなかった。

 石出牧師は1894年・明治27年の夏、須賀川に着任した。須賀川に着いて間もなく、彼は郡山の近くの町にいった。之が郡山といふ名が我等の記録に出て来る第1である。

 明治27年・10月以来、石出牧師は定期に郡山にいった。記録によると、その年の10月11月12月と三ヶ月、彼は郡山に6回いって集会を開いている。その度に家をかりる為に、60銭宛がっている。同時に笹川でも伝道を始め、各集会の為に35銭の室料を払っている。


2008年12月7日

須賀川教会の歴史(3−6)

伝道地変遷 その1(秋山牧師のこと)

 須賀川伝道が始まったのは、1892年・明治25年であったことは、先月号で申した。今日迄48年、此伝道地の教区の変化はさう激しくはなかった。

 1894年・明治27年の夏の頃、意志で牧師が郡山を訪れたがその年の秋から、郡山には定期伝道が始められた。須賀川も勿論である。2年後、第4年会の時、伝道地委員は次の提案をなし、之は受け入れられた。即ちそれは「郡山を須賀川より分離し、その周辺の地区を含む新伝道地となし、之を郡山伝道地と呼ぶ」といふのであった。その年会で秋山牧師が、新しく組織された郡山伝道地の牧師として遣わされた。それ故に秋山牧師は郡山伝道地の最初の正規の牧師となったわけである。

 秋山 咬は1889年・明治22年、神学生として受け入れられた。1896年・明治29年、彼は郡山伝道地の牧師として配備された。1年後、彼は所沢に遣わされ、そこに2年働いた。1899年から1900年まで東金・佐倉伝道地に、市川為四郎牧師と共に働いた。明治33年・1900年、長老職への進級願いを年会に提出した。此誓願は否決され、却って明治33年の年会では定住職になった。「勤勉ならずして併して成功を見ざる」が故であるとの理由が述べられている。
                     (P・S・メイアー著「福音教会史」より。原文のまま)

2009年1月11日

須賀川教会の歴史(3−7)

伝道地変遷 その2(リーベンツラー・ミッションの事)

 1901年・明治34年に開かれた第9年会の時、須賀川、郡山、本宮は一伝道地を形成し、郡山・須賀川伝道地と呼ばれる事に決議された。
 その後、殆ど教区区域の変遷は、この伝道地にはなかった。最近に至って、即ち1932年・昭和7年に開かれた第40年会の時に至って、須賀川と石川が一つになり、須賀川伝道地と呼ばれることとなった。然し之は更に1年後の年会に於いて「我らは石川伝道を中止し之をリーベンツラー・ミッションに委譲する事とす」という決議を可決するにいたった。リーベンツラー・ミッションとは、永年南洋諸島に広範囲の伝道を実行してきた、独逸の団体である。最近十年位から日本本土に伝道を開始したのである。その宣教師の一人、オットウ・モジマンという人はスイッツアーランドにおける我福音教会年会の平信徒であった。同氏は日本に於ける地方伝道にひじょうなる熱意をもたれていたので、石川伝道地が同氏に委譲さるる事となったのである。
 尚この際一寸注意しておきたい事は、先程、1901年・明治34年に須賀川と郡山と本宮が一つとなって郡山・須賀川伝道地となったと述べたが、その後須賀川と郡山とが分離してそれぞれ独立した伝道地になった事については、記憶の中で何処にも現れtいないという事である。然し事実は、1901年から1914年迄は一つの伝道地となっており、1914年から、須賀川は再び単独となっている。
但し之は記録には何ら記載されていないのである。

2009年1月18日

須賀川教会の歴史(3−8)

歴代牧師
48年に亘る須賀川伝道の間、此伝道地で働いた牧師の数も可なり多い。

1892〜1893 宇都宮からの出張井上運平
1893〜1894 須賀川・・中坪増太郎(但し何かのわけで赴任を水、宇都宮から河合篤叙出張す)
1894〜1895 須賀川・・石出精一
1895〜1897 須賀川・・山本増吉
1897〜1899 須賀川・・太田 勇
1899〜1900 須賀川・・井上運平
1900〜1901 須賀川・・三瓶正綱
1901〜1902 郡山・須賀川 三瓶正綱
1902〜1904 郡山・須賀川 二藤愛之
1904〜1905 郡山・須賀川 太田留助

2009年1月25日

須賀川教会の歴史(3−9)

1905〜1906 郡山・須賀川・・太田 勇 日野原孝二郎
1906〜1907 郡山・須賀川・・太田 勇 他は一員欠員
1907〜1909 郡山・須賀川・・太田 勇
1909〜1911 郡山・須賀川・・産形興一
    (此二年間に教区区域の変化はなかったが、二人の牧師が郡山に配備された。
     即ち産形氏の他に1909〜1910に山田孝一という事になっている)
1911〜1912 郡山・須賀川・・中澤一治
1912〜1913 郡山・須賀川・・中澤一治 関本俊雄
1913〜1914 郡山・須賀川・・中澤一治
1914〜1919 須賀川・・上代知新
    (此時から伝道地は須賀川と呼ばれるやうになったが、区域の変化は支持されていない)
1919〜1920 須賀川・・林 匠
1920〜1922 須賀川・・上代知新
1921〜1922 須賀川・・上代知新
    (此年度中に上代知新牧師は永眠され海老原章徳氏が遣わされた。)

2009年2月1日

須賀川教会の歴史(3−10)

1922〜1923 須賀川・・・海老原章徳
1923〜1924 須賀川・・・本川二郎
1924〜1925 須賀川・・・(此時、東北3教会は部長の下にあった。そして日本伝道隊の人々に                  働きを委託した。)
1925〜1926 須賀川・・・上井乙熊(上井氏は日本伝道隊の人であった)
1926〜1927 須賀川・・・白根喜四郎
1927〜1928 須賀川・・・坂本富弥(此時、石川は須賀川と一つになって伝道せらるる事になっ                  たと述べているが、伝道地名の変化はない)
1928〜1929 須賀川・・・E・ウイリアムソン及徳永裕一
      (此年二本松は須賀川と一緒に伝道されたが、教区の変化については何等触れられて        いない。)

2009年2月15日

須賀川教会の歴史(3−11)

1929〜1930 須賀川・・・徳永裕一
1930〜1931 須賀川・・・徳永裕一(この年、石川が須賀川と共に伝道された)
1931〜1932 須賀川・・・木山勇司(石川が再び須賀川と共に伝道された)
1932〜1933 須賀川・・・石川・・欠員
1933〜1934 須賀川・・・村上 束
1934〜1935 須賀川・・・欠員
1935〜1936 須賀川・・・木山勇司(この年、この伝道地は郡山からの出張伝道であった)
1936〜1937 須賀川・・・欠員
1937〜1939 須賀川・・・逸見正哉
1939〜1940 須賀川・・・深谷淳太郎
1940〜1941 須賀川・・・野津源市

2009年2月22日

須賀川教会の歴史(3−12)

 以上の記録を見て、人は誰でも如何に多くの牧師が入り代わり立ち代わり出入であったかといふ事と共に近年は殊にその任期も如何に短かったかといふ事に驚るる事であらう。最も永い任期といっては1905年から1909年頃と、1914年から1919年頃であった。

 上代牧師は此うちでももっとも任期が永かった。前後約6年であろう。
他は皆1年乃至2年例外的に3年のことが会った。之が約48年間の歴史である。そして、記憶すべきは、須賀川教会が、会員数や経済に於いて大をなした時はといへば実に、それは、任期も比較して永かった時代殊に上代牧師時代であったろう。

 残念ながら須賀川教会は、我福音教会の強大な教会の一つとは、遂に今迄の歴史においてはなり得なかった。一体に東北は経済的にも困窮の事が多かったが、従って此教会の経済的事情にも非常なる.進歩がなかった。

2009年3月1日

須賀川教会の歴史(3−13)

 会員数で一番多くなったのは1922年で、87名を算した。現在は訳0名という名簿上の数である。教会の統計を調査して此教会に大きなリバイバルが起こった年がいくつかあるのを見出す。それは受洗者が18人であたり、23名であったりした年々である。

 以上の如く、教会それ自体としては強大にならなかったが、此の教会から比較的多くの伝道者を輩出した事は興味あることである。それについて完全な表をつくることは出来ないが、以下の人々は、我主の葡萄畑の収穫場としての、我ら須賀川伝道から出た人々である。深谷牧師、邊見牧師(石川)、安藤喜市氏(日本伝道隊に働き今は和田牧師と米中、泉尾教会で伝道して居られる。)、杉原文吾氏(日本伝道隊に働かれたが今は須賀川で自給伝道)、安齋源助氏、山路淑存氏、荒井ことじ氏、遠藤とし氏、後藤義男氏夫人(以上の人々は皆日本伝道隊系に属して居られる)。

  今二本松福音教会で働いて居られる、平澤政経氏も須賀川教会出身である。
  同氏はドイツのリーベンツェラー・ミッションの八王子教会の牧師であったが今は前記の如くである。

2009年4月19日

須賀川教会の歴史(3−14)

宣教師の協力
 須賀川教会発展の為には、宣教師も亦、優れた貢献をした。ミス・エリナ・ランクは1914年・大正3年の秋、東京から郡山に移った。同女史の働きは郡山を中心としていたが、同時に須賀川教会とも深い関係をもっていた。4年後には、ミス・カスリン・シャーマーも郡山のミス・ランクの協働者となった。

 ミス・シャーマーは、特に須賀川伝道に興味を持った。同女史の十歩区にとどまりし数年間に教会堂建設期成運動が開始された。建築資金の募金がはじまった。然し会堂が達成されたのは20年後であった。

2009年4月26日

須賀川教会の歴史(3−15)

 1923年から1925年迄、日本伝道隊のC.S.ウイルキンソン氏夫妻が、ミス・ランクに協力した。
 この2年間に、多くの伝道集会が須賀川で催され、多くの人が基督に導かれた。1927年から1930年迄、E.ウイリアムソン宣教師夫妻が郡山に住み、須賀川教会のためにも働いた。1935年にはミス・アイリーン・アンダースンが東北に遣わされ、以来今日に至迄、東北地方会員のこと此教会に属した会員の全部の名を挙げることは、元より不可能な事であるが、最初の組長は、種々なる報告によると、教会の忠実な会員、倉田久太郎氏であった。

  当時のもう一人の人に渡辺かねさんがあった。彼女は、自分の家を協会用の為に貸した。永年、須賀川教会に関連をもつ家族といへば、橋本、安藤、内村という家族を上げなければならないであらう。

2009年5月3日

須賀川教会の歴史(3−16)

新建築
すでに述べた如く、須賀川に会堂を建てやうとする運動は、ミス・シャーマーが宣教師であった二十年前に始まった。然しその夢が実現したのは今年である。

 1938年・昭和13年に、134坪の地所を買った。此の所は須賀川停車場の極近くに所在する。価額は1,340円であった。その後少し遅れて、教会と牧師館の建築が始まった。教会堂は23坪で、美しい建物である。建物の価額は、3,232円61銭である。

  教会堂の背後に牧師館が建てられた。坪数は20.12坪で価額は1,638円40銭。印象的な献堂式が1940年・昭和15年7月7日挙行せられた。




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